un deux droit

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寮生ネタは時に笑えない

セミナー講師として出向いた客先で、大学の1年先輩に遭遇した。互いに面識はなかったが、私の自己紹介の内容から類推して感づいたらしい。
「あんどうさんって、〇〇出身ですよね?」
上の〇〇には大学名ではなく、とある寮の名前が入る。
私はかつて大学寮の寮長をしており、そのエピソードをかいつまんで話したらまさかの同窓がいた、というオチだ。寮や寮生の実物を見たことがない人には面白おかしいエピソードとして適当に脚色して伝えればまぁまぁウケのいいつかみになるし、組織論やリーダーシップの話題にもつなげやすい。母校から現在地まで2000km(適当)くらい離れているので、元ネタがバレることはまずないと高を括っていたらまさかの大当たりを引いてしまった、というわけだ。
実を言うと私の在籍していた寮は、在学生の中ではかなり悪名高い存在だ。少なくない数の寮生が奇怪で不潔な格好で学内をうろつく、夜中まで騒音、留年生の巣窟、低俗なイベントの数々、後を絶たない新入生の退寮者…。まぁ控えめに言って汚物である。キャンパスライフを堪能したい寮生は寮生の身分を全力で隠す。教授陣からは本学の品位を著しく損ねる存在として目の敵にされ、幾度と無く廃寮の圧力をかけられながらも、ゴキブリの如くしぶとく生き残っている自治寮だ。その出身者とバレては社会人としての信用度は限りなくゼロに近づく。
そして間の悪いことに、この研修以降の教育担当がその先輩に変わるとのこと。あらかじめその情報を掴んでいたら、絶対に寮のことは自己紹介に混ぜなかったのに…。この研修がこの会社との最後の仕事かもしれない…
その節は大変ご迷惑おかけしました…なんとか受け答えを絞り出してそそくさと講演席に戻った。その後もなんとかセミナーはやり切ったものの、偉そうに喋る私の姿を捉えている先輩の目が「私はあなたの本性を全て知っているよ」と物語っているように思えて気が気ではなかった。…これからは受講者に母校出身者がいないかあらかじめ確認しよう。そう心に誓った。

加害者を憎むだけでは犠牲者は減らない

3歳児が8日間放置されて餓死していた事件について。

自分が子どもを授かる前だったら、同じ苦しみを味わって死ね、と切り捨てておしまいだっただろうニュースも、毎日子育てしていると、安直にこの母親を責められない歯切れの悪さを自分自身に感じる。
この母親と同じような未成熟さ、身勝手さを自分の内面に見るのだ。
育休も合計1年半ほど取って、育児に投下した時間量だけ見れば、世の男性と比べて褒められたものだとは思うけれど、根本的な人間に対する情の薄さ、のようなものがどうしても拭えない。
結局自分は育児という「作業」をしているだけで、子どもたちと心を通わせ成長を導くという営みはほとんど妻任せなのだ。
子どもと一緒に遊んでいるときにテレビに意識を取られる。
仕事のことが頭をよぎり子どもとの会話がお留守になる。
私が子どもの面倒を見ているときばっかり、お茶をこぼしたりケガをしたりする。
結局親のフリをしているだけで、内実が伴っていない。
妻はながらスマホもしない。子どもと向き合っているときは他に意識が取られない。
しっかり絵本を読み、おままごとにキッチリ付き合う。
ささいな成長を見逃さず、我が事のように喜ぶ。その顔を見て子どもたちもこの上なく幸せな表情を浮かべる。
私も同じように努力しようとし、何回かはそれっぽいことができたりもするが持続しない。
結局動機が妻に張り合っているだけだったり、自分が子育て不適格者だと認めたくない、というプライドでムキになっているだけなのだ。

それでも私の子どもたち二人が今のところ健やかに成長できているのは、ただただ環境に恵まれているとしか言いようがない。
人格者である妻、祖母、暮らしに不自由しない程度の収入、子育てに適した住環境。私の稼ぎ以外は全部妻が手配したものだ。
両親健在、貧乏も暴力もいじめも経験が無く、何不自由なくおっさんまでのうのうと暮らしてきてこの体たらくだ。
何か一つでも変数が狂ってダウンサイドに落ちていたら、自分も同じ運命をたどる素質があると感じている。

今の日本は、子どもが無事に大人になれるかどうかを、親の健全さに依存しすぎなのではないか。
もちろん親側が子を育てるのは大前提ではあるけれど、
べき論と、実際のところ健全な子育て環境があるか否かの実態は切り分けて考えるべきだ。
児相や養護施設が完璧だとは思わない。けれど、当たり前のことだけど、セーフティネットの枚数が多い分だけ最悪の事態が生じる確率は下がる。
安直に個々の家庭へと責任を凝縮せず、直接加害者への憎しみや嫌悪感を一旦脇に置き、どれだけ多くの人間や周辺組織が当事者意識を持てるか、あえて責任を分かち合おうと思えるかが問われているように思う。

人の話は聞いている

妻から、もっと人の話を聞いてよと愚痴られることが週に何度かある。
余計な解釈を加えず、類推もせず、言葉の意味通りに受け止めよ、ということを妻は言うのだが、
それを他人に求めるのは無理なんじゃないかと思っている。

互いに持っている情報、知識、価値観、思考回路、経験、その時の感情、体調、全てが異なっている中で
一つの文章を遺漏なく発話者の意図通りに受け止めるなんてことは不可能だ。
それはもう思考するなと言っているに等しい。しかし相手の発言の内容を理解するには頭を機能させなければならない。
この時点で破綻している。
なので、話し手の伝えたい事と聞き手の受け止めでずれが生じたとき、
すぐに「話を聞いてない」と断定するのは無作法だと思う。

「話を聞いてない」というのは無反応の時だけにしてほしい。
それはまさに耳が振動を捉えてない、あるいは捉えた振動が脳への信号に変換されていない、という意味を指すから。
あるいは途中で発話を妨害して話すこと自体を許さなかった時か。

「話を聞いてない」という言い方、癪に障るんだよなぁ。
でもじゃあ何と表現すればこの現象をもっとしっくり表現できるのかと問われたら困ってしまう。

自分が伝えたかった内容とあなたの理解にズレがあるように感じています。

長い。

話聞いてないって省略しちゃうよなぁ。
でも聞いているんだけどなぁ。
こういう小さいことにこだわる幼稚さを早く卒業したい。

怒りの感情で人をまとめることはできない

日本では平等で対等で平和を愛する人は、左寄りの人たちの言説に馴染むことになる。
そういう人ばかりツイッターでフォローしていると、大抵いつもみんな誰かにプリプリ怒っている。
左寄りの人は潔癖で正義感があって不正が許せないから、今の政治や社会の状況があまりに酷くて憤慨せずにはおれないのだろう。
気持ちは十分わかるし、その切れ味鋭い論説の数々には頷くことの方が多い。
けれどもその怒りの吐露は、彼らが最終的に実現したい社会の到来には、残念ながら貢献しない。それどころか怒れば怒るほど遠ざかる。怒りはどこまで行っても拒絶の姿勢だからだ。
拒絶の姿勢をベースにして生きていると、結局肝心なところで些末な粗が気になって手を組めない。その潔癖さゆえに本来は味方になりうる人にも牙を向いてしまう。そして結局はそれぞれが孤立化してゆく道を歩んでしまう。
人は不完全だ。どこまで行っても。いつかは何かを必ず間違う。偏見からなかなか自由になれない。卑しさや醜さのない人はいない。そのことを認めて許容できないと、いつまで経ってもまとまることはできない。
みんなが求めているのは何一つ不正のない世の中ではない。もちろん不正のないことに越したことはないけれど、〇〇がない社会、というのが人の憧れるビジョンとしては、弱いと思う。もっと具体的に、これがある社会にしよう、人生にしよう、という目に見えて手触りのあるビジョンを打ち出すことが大切だ。
何かを無くすのは実に難しい。検証もできないし、実は何も生まれない。
それよりも今まではなかったこれがある、と言えるものを一つでも多く作っていこうとすることなら、一歩ずつでもできることはある。その方が前向きだし、人が気軽に賛同でき、集い、力を合わせることができる。いがみ合うことなく。
政治家の人もマスコミも不正を暴き、相応の罰を受けさせたくて仕方ないんだろうけど、宿願かなって悪者を根こそぎ痛い目に合わせたとして、その後はどのみち焼け野原なのだ。怒りは対象を失った途端無力になる。そこが怒りの限界であり、最大の弱点なのだ。
怒りを持つなということではない。怒りのウエイトをもっと落としたらどうか、ということだ。過去の不正に目をつぶる必要はないけれど、不正を暴いたところで失われた利益は戻ってこない。それよりも大事なことは未来の不正を生まないことだ。
ワクワクするビジョンは怒りよりも長持ちする。もちろんワクワクするビジョンなんて簡単にはできないし、怒ることの方が簡単だ。でも安易に怒りに逃げないで欲しい。怒りに身を任せず、希望で人を束ねる人が一人でも現れて欲しいなと願っている。

営業と大雨

毎年雨には泣かされてきた。
基本的に、雨を理由にアポイントをリスケできるか顧客に打診する営業はいないと思う。
なんなら10年前くらいだと、雨の日こそ直訪(アポ無し営業)に行け、温情で座らせてもらってそこから仕事に繋がることもある、なんて感情論を振りまかれたこともある。
そういう空気感の中で、大雨が降っていてもしぶしぶ客先に出向き、スーツと革靴を水没させて帰ってくる、なんで馬鹿なことを念に何度かしてきた。
もちろんそんな日に出向いたからって、成約率が上がるわけでも客先評価が上がるわけでもない。それでも一度確保したアポはなかなか手放せないのが営業の悲しい性だ。風邪をひいたり電車が止まって帰宅難民になって次こそは必ずキャンセルするんだ…と歯噛みしても、翌年には必ず同じ過ちを繰り返してきた。
なぜ過ちを繰り返すのか。それはひとえに、雨のピークが夕方に固まることにある。キャンセルをかけるべきタイミングの午前中はまだ小雨だったりする。忌々しいことに電車も通常運行している。不可抗力なく自分の判断でキャンセルを決断しなければならない。天気予報では警報と言われていても、目の前の天気とアポ延期という判断の見かけのギャップに耐えられず、顧客への電話発信ボタンをどうしても押さないできた。そして夕方の集中豪雨にまともに巻き込まれるのだ。どうせ降るなら午前中から頼むよ。いつもそう願うけれど、雨の降る仕組み上そういうものなんだろう。理屈はよく知らんけど。

今日も朝の雨は普通だった。電車も遅延していない。この程度でアポをキャンセルする営業はいない。けれども自宅と顧客までの間の地域に大雨警報が出ていた。これは「例の日」だぞ。そんな予感がした。念のためですが延期させてください、と顧客に連絡を入れ、リスケをした。さらには今年からのバージョンアップとして、事務所にも出向かず在宅勤務にした。昨年はなかった選択肢。今回はなんの躊躇もなく使わせてもらった。上司は雨にまみれても出社していたようだが、そこに対しての気まずさはもはや皆無だった。あんたは勝手に濡れてろ。それが仕事だ。
保育園の送り迎え以外は雨に降られることもなく1日を快適に過ごし、そういえば天気どうなったんだろうとニュースを見たら、自宅と顧客の間の地域が完全に水没していた。おまけに電車も完全に死んでいる。昼過ぎから上下線運転見合わせで明日いっぱい再開しないらしい。マジで危なかった。今日のアポを決行していたら最短でも明日まで帰れなかった。朝の警報は正しかった。私はついに営業職の呪いを解き、雨を克服したのだ。

ここ数年の雨量はシャレにならない。過去の経験はあてにならない。そして自分には家族がいる。いざという時には常に近くにいて安全を確保したい。そのためには仕事のルーティーンを壊すことを躊躇してはならないのだ。
今日も去年までの自分のような帰宅難民が多数発生していると思う。早くこの不毛な習慣から足を洗う勇気をぜひとも持って欲しいと強く願っている。

最後に、この度の豪雨で被災された方のご無事と、犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。

リーダーの選び方

東京都知事に小池さんが再選された。

女帝 小池百合子 (文春e-book)

女帝 小池百合子 (文春e-book)

女帝を読んだ身としては、彼女をこれ以上権力の座に居座らせることの恐ろしさを感じずにはいられないけれど、結局この本も売れたと言っても15万部だし、大勢には影響ないわな、としらけた気持ちで結果を受け止めている。
これは私自身の反省としても書くけれども、多くの人は投票の際に、政策の是非やこれまでの実績を吟味したりしない。小池さんが前回の都知事選で掲げた7つのゼロ公約をほとんど達成できてない、という批判があったが、そもそもその公約を支持したから投票したわけではないし、そもそもその公約を覚えている人がどのくらいいるのだろう、というのが正直な気持ちだ。ひょっとしたら小池さん自身も公約を忘れているかもしれないが、都民も忘れているなら問題ない。4年の間丸々忘れていた人から選挙の時だけ非難される筋合いはない。

私は以前、野田さんが解散した時の衆議院選挙で、安倍さん率いる自民党に投票してしまったことがある。自分の政治信条を曲げて心底後悔しているが、あのときの民主党の迷走は見るに堪えなかった。政策の是非よりももっと原始的な感情で、このおっさんたちの下についているのが我慢ならなかった。自分たちの代表という顔をこの人たちにしてもらいたくなかった。端的に言ってどうしようもなくダサかったのだ。ダサい人の下に自分がぶら下がっていると思うと虫唾が走る。せめてもっと仕えるに足るリーダーはいないものか。そういう思いで悪魔を選択をしてしまったのだ。

人はリーダーを選ぶ際、自分より優れた人間を選ぼうとする。自分にない性質。自分に無いカリスマ性。そういう者を求めると、大抵いじめっ子で冷淡で非情な人間を選びがちだ。そういう性質を多くの人はあまり持たない。レアな性質を自分より優れている証左だと誤認してしまう。逆に平和主義で穏健な顔をした人間を上に立てない。大半の人間は平和主義で穏健だから、自分と大差ない人だと誤認してしまう。なんかこいつを自分より上に据え置くのは癪だなぁ、と。政策云々も大事だけど、野党の皆様は、人々が「自分の上に据えてもいい」と思えるカッコよさをもっと研究した方がいいと思う。

コスパに優りしバロメータ

宝くじを買う人を、あなたは馬鹿にしているだろうか。
どうしてあんな期待値の低いものに金を費やすのか。
簡単な計算もできない愚かな人間。
そんな論調の話は、まぁよく聞く。
しかし私は、宝くじを買う人を別に愚かだとは思わない。彼らは投じたコストと回収できるリターンを真面目に計算して購入しているわけではない。彼らが買っているのは、購入してから結果が判明する間の「興奮」だ。
もし当たって億万長者になったら、とあれこれ想像するのは実に楽しい。しかしその想像が楽しいのは0.001%でも本当にそうなる可能性が自分に用意されているからだ。実際に起きる可能性がないことを想像するのは虚しい。だから人は宝くじを通じてその想像を楽しむ権利を購入しているのだ。競馬や競艇、パチンコなどの賭博も往々にしてそんなもんだろう。収支はマイナスでも、ワクワクする体験にお金を払っているんだから彼らの満足値はプラスだ。お金を払ってディズニーランドに行く人の満足と構造は同じで、どの体験を経由して満足するかだけの差でしかない。私はそのように解釈している。宝くじは買わないが。
何でこんな話を始めたかというと、私たち夫婦でクレーンゲームがブームになっているのだ。以前はあれほどバカバカしい遊びはないとみなしていたのに見事にハマってしまっている。実際定価で買えばゲームに投じた金額以下で手に入るのに、あえてクレーンゲームを経由して手に入れようとしている。しかもおそらく店頭に陳列されていても購入しないであろうものが手に入るゲームに手を出している。不要なものを手に入れるためにその価値以上の金額を投じて入手しようと躍起になっている姿は、宝くじ購入者を冷笑している人にとってみれば同族の愚かさを見て取るだろう。しかし問題はそんなに表層的なものではない。そう、結局私たちは入手に至るまでのプロセスで味わう興奮にお金を払っているのだ。
2人目の子どもができて以来、旅行もめっきり行かなくなったし、外食もグッと減った。それらのレジャーから味わえる満足を引き出すために必要となる準備や、道中の子供のケアに費やされる負担が大きすぎて、すっかり意欲がなくなってしまった。もっと手軽に、短時間で楽しめるもの。色々と模索した先にたどり着いたのがクレーンゲームだったのだ。金銭と入手物の交換レートはえらく悪いが、かけた肉体的精神的負担と得られる満足の交換レートが非常に良い。おまけに妻と私で連携プレーで大物を落としたりなんかすると協働作業の達成感で夫婦仲も良好になるなどいいことばかりだ。
コスパは悪いんだけど、コスパじゃないんだよな。なんか別の単語でこの概念を表せないだろうか。英語が得意でないからあまり的確な表現が思いつかないけど、suffer performanceが良い、とでも言っておこう。苦痛から得られる便益が大きい。サファパ。サファリパークかっつーの。流行らんなこれ。