un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

お目こぼしの余白に価値を感じる

大阪の清風高校で、試験のカンニングが発覚した生徒の自殺し、学校の対応の不手際について両親が損害賠償を訴えた、というニュースがあった。該当の生徒は、教師から卑怯者と詰られ、大学推薦対象からの除外、反省文提出などを求められたようだ。

自分自身の10代の頃の未成熟さ、脆さを思い返したとき、この生徒に同情してしまった。とても耐えられたものではないだろうなと。落伍者としての烙印を公然の場で背負わされるという恥辱を味わい、友人と構築した関係性を全て奪われた。罪と罰のバランスが釣り合っていないように感じた。

他人のことは知らないけれど、私自身のことを見つめ直せば、ろくな人間ではないということを知っている。小中学生の頃に万引きをしたり、高校生の頃にテストの回答を書き直して先生の丸付けが間違ってるといって点数を水増ししてもらったりしたことがある。今でこそしないが、器物損壊、立ちションなど、軽犯罪レベルのことは何度かやらかした自覚がある。

おそらく、店主も担任も街の人も、私の低俗な行為を認識していたと思う。子どもはバレてないと高を括っていても、大人はそんなに馬鹿じゃない。でもそれらの行為を、私はことごとく見逃してもらえてきた。おそらく、公に露見してさせてまで静止しなければならないほどの有害レベルには達しなかったのだろう。おかげで、自分は周囲に示していたメンツを失うことをせずに生きていけた。

これまでの人生で何度も過ちを振り返り、お目こぼしをしてもらえたことに感謝をし、苦い罪悪感を抱えてきた。テストの点をちょろまかした罪悪感は、せめて大学受験だけは正々堂々勝負して実力を正当に証明しようという原動力にすらなった。もちろん合格したとてそれで過去のちょろまかしが清算できたわけではなく、今でもしこりとして残っている。

露見すれば後ろ指を指されるような過去を抱えていることで、人は他者の愚かさに対してある程度寛容になれるという側面もある。自分は何一つやましいことはないと公然と言い放てる人間が周囲に与える窮屈さは社会を疲弊させ摩耗させる。誰かの愚かさが淘汰されないことによってまた別の他者が苦しむ可能性もあるので、寛容が万能だとは言わない。けれども不寛容で潔癖な社会で社会復帰困難な落伍者が量産されることの損失が、お目こぼしをされた者が引き続き害悪を撒き散らし続けることの損失よりも大きいと感じている。後者はどのみち改善可能性がなくていつかの段階で排除されるが、前者は自力で真っ当な人間へ復帰する余地があるからだ。

不寛容な叱責はその復帰の目を摘む。ちゃんと非は非として素直に認め、禊をしたほうが帰って後腐れなく気持ちよくその後の人生が送れる、という信念の人間も多いが、人間はそんなに強くない。特にそういう意地汚い行為に手を染める人間は、だ。裸一貫にされてから己の行為を真摯に反省して、一念発起し、心を入れ替えて更生する、という人間は稀だし、そこまで献身的にサポートしてくれる他者を必要とする。落伍者への人のサポートというセーフティネットなしに、愚かさに不寛容な社会を作るのは完成度の低いシステムだと思う。

冒頭のカンニングした学生に対しては、せめて行為と人格を切り離して処分できなかったのか。カンニングを見逃すと校内のエコシステムが壊れるので、ペナルティの執行に関しては粛々と行わなくてはならない。こっちも校内の規律を守る役割があるからそこはすまんね。甘んじてペナルティを受け止めてほしい。でも君には素晴らしいところもたくさんあるし、実力もある。この行為一つであなたの価値すべてが失われたわけではない。行為は行為として真摯に反省して、この機会を君の人格の陶冶に活かして力強く人生を歩んでほしい。そのような声掛けをしてほしかった。行為を憎んで人を憎まず。卑怯者と言い放ち、学生の人格まで踏みにじったのは逸脱行為だったと私は思う。

私は私自身で、私の行為をお目こぼしをしてくれた人たちが、「やっぱりあそこで見逃さなきゃよかった」と後悔することのないよう、自戒しながら生きて行かねばと思っている。