un deux droit

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家庭は癒しの場などではそもそもなくて

今回の抗争でも、家庭からの離脱に失敗。もう私か妻のどちらかが死ぬしか関係の解消に至れないことを悟った。ただ私は毒物を混入して殺害するような肝の据わった人間ではないし、妻は毒物を混入して殺害するような肝の据わった人間ではあるが、この環境に満足しているので動機がない。ただただ寿命の尽きるのを待つのみ。

妻と数時間言葉を交わして理解したのは、家庭というのはそもそも癒しや安らぎの場なんかじゃないってこと。そんなことを期待しているので日々の暮らしに不満を持つのだろう。

家庭とはすなわち修行の場である。それ以上でもそれ以下でもない。ひとかどの人間として
ただひたすらに素養を磨くために存在している。あとはパートナーによって修行のタイプが異なるだけ。パートナーが優しい代わりにお金を稼ぐのは自分だけ、という修行もあるし、束縛がきつくて窮屈という修行もある。子供がいない、あるいはパートナーそのものがいなくて気楽で自由だけど孤独、という修行もある。それぞれに優劣はない。自分が耐えられて、伸ばしたい素養に応じて修行の種類を選ぶだけである。私はたまたま自覚なく千日回峰行を選んで死にかけているが、修行の成果によって自分では想像もしていなかった仕事に従事し、もともとの素養では到達不可能だったと思えるような経験を得ている。千日回峰行からは脱落したとて、修行から解放されるのではなく、また別の種類の修行が待っている。ならば選んだ修行を続けよう。こんな修行、選ぼうと思ってもなかなか世の中に転がっていないのだから。そう割り切ることにした。

離婚するカップルが増えてきているのは、他者と意見をすり合わせて合意形成を図る、という修行を苦痛と感じ、またそこから得られるか実に魅力と思わない人が増えてきているのだと思う。それはそれですごく共感する。こんなん誰とやってもしんどいよ。今私が妻とは別に心惹かれている人とだって、家庭を形成すれば同じ問題が起こるんだ。

意外なことに、私が選んだ修行には、色恋を妻とだけ営む、という要素は含まれていない。もちろん公然と不倫をすれば裏切りとなり、離縁と多額の賠償金が待っているが、露見しなければ何ら問題ではない。ばれないようにうまくやれ、というスタンスだ。喧嘩の時に言っていたのは、心の充足を素人と結んだらそいつが家庭に乗り込んできたり、あるいは子供を身ごもったりして破綻を招くからやめておけ、やるならちゃんとお金を払ってプロに処理してもらえ、ただしそういうところに通っていることは私の目の触れないところでやれ、ということだった。

妻は私の携帯の中身を見たりするようなタイプではない。そもそもそういうことに関心がない。私の恋愛感情の持っていく先が妻でないという事態については、妻本人が傷つくというより子どもの成長に悪い、みたいな理由が強い。妻と私が互いに愛情を持っていないこと自体はそれほど子供の成育に影響ないのだろうか。まぁ自分も自分の両親がどういう感情を互いに抱いていたかなんて関心を持ったことすらなかったからいいのか。むしろそういうもやもやを解消せずに諍いを続けるより、他所で気持ちをすっきりさせて、家庭では修行に集中したほうがいいのかもしれない。子ども達も成人になったらそういう大人の感情の複雑さを学んでいけば、徐々にわかっていくのかもしれない。もちろん希望的観測に過ぎない。


今週のお題「大発見」