un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

【書評】國分功一郎『目的への抵抗』

先日、フォローしているブロガーさんが紹介していた『暇と退屈の経済学』という本を読んでみたところ、たいへん面白かった。するとその「続編」と題した新書が書店に並んでいたので即買い。タイトルがまた良い。目的への抵抗。ありふれた言葉どうしをくっつけて、まったく新鮮な印象を与えられる人の知性に震える。あいみょんの音楽とかに近い。耳なじみが良く、なんかどっかで聞いたことがあるような親しみがあるのに、絶妙に過去の作品群を潜り抜けて今までになかったメロディーをはじき出す。そんな感じ。

さて本題。この本は大学でされたある講義を文字おこししたものである。コロナ禍において「緊急事態」の名のもとに放棄してしまった人間としての自由。そして許してしまった行政権力のフリーハンド。そして「不要不急」の名のもとに、目的を満たす以上の手段の行使を「贅沢」であると諫める空気感。それらの不自然な状態に違和感を抱かない日本社会について問題提起をしている。

個人的に膝を打ったのは以下の2点。

1つ目は「移動の自由は人間が不当な支配を逃れて自由に生きるための根本条件である」という記述。あるイギリスの資本家が大量の召使たちを引き連れてオーストラリアに移住したら、到着した翌日から誰一人資本家のために働く者はいなくなった、というマルクス資本論の引用が紹介されている。この箇所を読んで、日本が国土の狭い島国という脱出の困難さのために支配者の横暴を覆しにくいのだなあと認識できた。私が勤める会社が在宅勤務に制約をかけたくて躍起になっているのも、従業員を支配できていないことへの苛立ちからくるのだろうと思う。現に東京本社所属の人間は理不尽な仕打ちにも従順だし、福岡在籍の私と札幌在籍の同僚は本社からの理不尽な要求にも馬耳東風で、発言も奔放、物理的にも精神的にも自由を謳歌している。雇用とは支配従属関係に他ならないのだから、自身の人間性を毀損したくないと願うならば、せめて物理的な距離は可能な限り取るに越したことはない。蛇足だが、家を買うと経営陣がにやにやするのは同じ理由。

2つ目は「いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間」という記述。これはハンナ・アーレントの引用。全体主義者が求める人間像とはかくたるものだ、と述べたものだが、著者は現代においてそのような人間性が完成しつつある、ということに警鐘を鳴らしている。著者が例示しているのは、食事一つとってもただ純粋に味わうために食べるのではなく、写真を撮り、SNSに上げるという「目的」のために食事をとる、みたいな行為だ。すべての行為はそれそのものを目的とするのではなく、何か別の目的を果たすための手段となっている。その目的もまた何かの目的を果たすための手段となっている。以下永久連鎖。こういう人間を大量に製造できれば、飽きることなく無限に消費させることが可能となり、資本主義社会をまわし続ける動力となる。そんな話。

この箇所を読んで、あぁ、そういえば自分がランニングを趣味だと言うと「ランニングは運動としてカロリー消費の効率が悪いし、筋肉減らすからやめた方がいいですよ」と忠告してきた後輩の男がいたなぁということを思い出した。単純に走ると気持ちいいんだよ!それでいいだろ!と思ったけれど、冷酷な事実としては彼の言う通りなのだろう。ただ、好悪の別なく、目的を達成するための最も効率の良い手段を躊躇なく選択できる彼のことをなんとなく気味悪いなぁと思ったのだが、その時はその理由を解明できなかった。その種明かしをアーレントにしてもらった気分になった。

自分も自分で、妻との喧嘩の時に「そうやって私が最も嫌な気持ちになる言い回しを執拗に選んでなんか意味あるの?私があなたの望むようにふるまってほしいという目的を叶えるためにもっとも不適切な手段だと思うけど」ということを頻繁に言ってしまっていることを反省した。もちろんこのときの妻の反応は「うるせー」の一択である。怒り狂った妻には目的がない。ただ怒り狂うために怒っている。問題を解決したくもなければ、和解もしたくなく、私に理解を求めるつもりもない。自由を守るために目的への抵抗を続ける哲学的実践者は私のすぐ隣にいた。これからは彼女が不毛な手段を行使して怒り狂っていたら「目的へ抵抗しているなぁ」と冷静に受け止めることができそう。そしてできれば著者にサンプルとして提供したい。

別にこの書評を書いたのは、アフェリエイトが目的ではないからね!

▼暇と退屈の経済学を読んで感じたこと。自分こんなこと書いたっけ…ドライブがかかっている。こっちの方がまとまってて読む価値ありそう。
un-deux-droit.hatenablog.com