un deux droit

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支配と自律の共依存

今日は久々に口論。長女は登園した後で、次女だけが保育園の登園を大幅に遅延するという憂き目にあったが、2時間半程度の議論で終結。最近はヒートアップをしたあとに感情のしこりが残ることが少ない。「出て行け~~~~!!!!」と金切り声で、向こう三軒両隣に響き渡る発狂を妻がしたのに、その30分後には互いに朗らかな表情で行ってきますと玄関前で声を掛け合っていたりする。ご近所さんからすると私たち夫婦が奇異に映るだろうし、もしや自分の耳や脳の認知がおかしくなったのではと心配させてしまうような事態。お隣さん、大丈夫、あなたの耳は正常です。

今日のテーマは「支配」と「自律」。

妻が何かのお願いを私にする。

私はお願いを聴くと、どうにかしてそれが実現するように頑張ろうと頭を働かせる。

そして、「○○だったら△△が□□になるからできるよ」と条件を加えて、可能だと答える。

それが妻にとっては「恩着せがましい」と映る。「やりたくもないことをあれこれ算段つけて融通してやるのだから感謝しろよ」と強要されているように受け止める。

妻の思い描く人間関係は互いに自律した大人同士。できないことはできない、やりたくないことはやりたくないとはっきり言い合うべきだ。なんとかこうすればできる、と自分を事情を捻じ曲げて相手の要望をかなえようとするのは支配する側とされる側の関係だ。それで私は喜ぶ人間でないし、それで喜ぶ人間だとあなたから思われていることも癪だ。そう妻は言う。

最初のお願いも、できるなら「できる」とだけ答える。大変だ、やりたくない、と思うなら率直にそう言う。そうやって自分の事情を大切にしているということをストレートに伝えられるのはそれを相手は受け止めてくれると信頼している証拠だ。そのうえで他のやり方を考えたり、でもどうしてもやってもらわなければ困るなどと交渉して決着させる。重要なのは互いの手札を惜しげなく開陳すること。

私は私で個人の事情より家庭の事情が優先されるべきで、家庭の事情を犠牲にする個人の事情をやすやすと口にするべきでないと思っている。それこそ、「面倒くさい」などもってのほかだ。和が乱れる。そういう感情はできるだけ口にせず、いろいろ困難な事柄がある、という事実を留保として付け加える程度にとどめるべきだ。その事実を加味したうえでそこまでしてもらう必要はないかな、と互いの開陳した手札だけで物事を着地させる。たとえ誘われていた飲み会があってそれと家族の用事がバッティングしていても、ひっそりと飲み会を断る方が家族に気を遣わせないではないか。「自分は飲み会をわざわざ断ってこの家族の用事に顔を出している」と言う方が恩着せがましくないか。私はそう思う。

妻は「飲み会を断ってきたのだ」ということは家族内で共有し、それを素直にありがとうと言いあうべきだと主張する。そしてそんなに飲み会を未練がましく言うのなら行ってこい、それで家族の用事がポシャることの責任を受け止めるだけだろう。そしてその責任はあなたの思うほど重くはない。自律した個人が寄せ集まって暮らしているのだからあなたの用事が他の家族の用事より優先される機会は均等にあっていいのだしあるべきだ。自分だけ優先される機会を我慢していることを「貢献している」と解釈するのは認知がゆがんでいる。そしてそうやってあなたが家族に支配されることを選ぶのは、他の家族にも支配されることを強いること、すなわち共-支配とも言うべき関係性を構築しようとしていることになる。私はその輪には加わらない。妻はそう言い捨てる。

妻の主張は妻が私のルールに則らないということを主張しているだけであって、妻のルールで私も暮らせと言っているわけではない。妻に適用されるルールについては決して融通しないが、他人に対して妻のルールを押し付けることは絶対にしない。一緒に暮らしているとその境目がわかりにくくなるのかもしれないけれど、よく観察すれば私が縛られていることは何もない。

非常によくできた構造のように思うのだが、これが外から見たら支配の構図だというご指摘がありましたらどしどしお待ちしております。