un deux droit

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生きる意味を見つけるか、死ぬ恐怖を克服するか

昨日、山手線で人身事故があった。

亡くなった方が線路に降りる様子の動画がツイッター上で拡散されていた。

寝る前に見るもんじゃないとわかっていながら、自動再生される動画をついつい見てしまう。

私が見たのはかなり遠くからの映像で、ぼんやりとシルエットが見える程度。轢かれた瞬間などは判別がつかないのでグロ動画ではない。ただ、そのシルエットの、線路に降りて寝そべるまでの所作がと言ったらなかった。力みもなく、躊躇もなく、まるでベンチに腰掛けるくらいの滑らかさで、死を決意した人の動作とはこのようなものかと、荒い画質がかえって生々しさを覚えた。

人が死ぬ瞬間など何故見たいのかと自分でもよくわからない。よくわからないが、死ぬことが果てしなく怖いと同時に、死んでしまいたいというやんわりとした希望もどこかで抱えていて、その一線を超えた者に対する憧れが目線を外せなくなる要因かもしれないと思ったりもする。希死念慮と言うのは大げさだけれども、自分には到底できない。死への恐怖という本能のアラートを完全に無視できてすごい。羨ましい。そんな気持ちがほんの微量、心の隅っこにある。

あの時間、電車を待っていた大多数の人が「迷惑をかけやがって」と思っただろう。けれど、「迷惑」の概念を構成する社会自体がそもそも虚構であって、それを共同幻想にしてその秩序に沿って生活しているのは、今も生き残っている我々の方なのだ。誰かが勝手に死んで電車を止めることを迷惑と感じるのは、家に帰れなくなるからであって、自力で家に帰れなくなる危険性のあるところまで移動したのは自分の選択であって、そんな遠いところまで移動したのは社会を信じているからに過ぎない。そして家に帰らなければならないのは家でしか眠れないと思っているからであって、家で寝ないと困るのは明日の身だしなみや服装が整わないからであって、明日の身だしなみや服装が整わないと困るのは仕事に行かないといけないからであって、仕事に行けないと困るのはお給料をもらえなくなるからであって、お給料をもらえなくなると困るのは飯を食えなくなるからであって、飯を食えなくなると困るのは死ぬからである。

これが動物ならばそもそもねぐらから不用意に遠くまで行かないし、帰れなくなったらその辺で寝るし、身の清潔は適当な水辺で済ますし、飯はその辺で探すし、見つからなかったらそこで野垂れ死ぬだけだ。人間も動物も「死にたくない」という衝動で駆動しているわけだが、動物の生活に「迷惑」を感じる要素は何処にもない。「迷惑」という概念が発生するのは共同幻想に自分の生活を委ねて、共同幻想を壊されたら途端に生きていけない無防備な状態に我が身を晒して生活をしているためである。逆に言うと「迷惑」だと思える人は共同幻想を信じて疑わないので、社会の維持にとって「健全」で「好ましい」存在である。「死にたくない」の要素だけで人生を継続できるのでとても有用なのだ。

でも私は「死にたくない」と同時に「さりとて生きている意味もない」とも感じている。「死にたくない」は本能の要請だが、「生きながらえること自体の意味を突き詰めると特にないんだよな」と知能の働きで気づいてしまっている。「生きている意味のなさ」に気づいたが最後、なにかその事実を直視しないで済む別の目くらましが必要になる。生きている意味のなさの実感を、当面の間和らげてくれるもの。それが「生きがい」と呼ばれるものの正体である、と私は考える。

今、社会はとても「死ににくい」状態になった。だから「死にたくない」という本能の恐怖はとことん遠ざけられていると思う。それはそれで人類の成果だ。でももう一方の「生きている意味のなさ」に対するカバーリングについて、まだ人類は正解を得られていないし、特に日本の社会はその点に対する配慮がとても薄い国にしてしまったと思う。権力者側が「生きている意味のなさ」を感じなくて済むために、大多数の庶民から生きがい資源を収奪することを厭わず、お前らは「死なない」だけで十分だろ、それで満足しろよ、と突き放しているように見える。賃金はいつまでも上がらないし、生活費は上がりっぱなしだし、格差は放置だし、不正は横行するし、民主主義は否定する。ただでさえ生きている意味なんてないのに、それをわざわざ色濃くする必要なんてない。上級国民様が「生きている意味を感じる」ために必要な経費が高すぎやしませんか?もっと少ない量の生きがいでも人一人は生きていけるよ。人の分まで奪いすぎだよ。そんなことを思う。

冒頭の人身事故の話に戻る。亡くなった方は亡くなる前にもう社会という虚構を手放したし、これから亡くなるであろう方も先に虚構を手放すところから実際の死に向かうわけで、虚構を手放した人に対して文句を言ってもその声はすでに届かない。「迷惑かけて死ぬな」の前に、「社会という虚構に身をゆだねる値打ちを高めなくては」と生き残っている人は考えた方が良いと思う。もっと、ただ生きているだけで「いいこと」が発生するように社会を設計して、できるだけ多くの人が「生きている意味のなさ」を感じなくて済む社会を設計しよう。だって人生はただそれだけでは虚しいだけなのだから。そんなことを思う優しさが、まだ生きている人の中で共有されますように。


id:hazukikoseさんが紹介していた↓の本を読んでいるからこんな妄想に取りつかれているに違いない。面白い本です。


紹介記事↓
www.kosehazuki.net