un deux droit

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自分なりの『幸せのカテゴリー』

数年に一度、学生時代に付き合っていた人とご飯を食べに行くことがある。昨日はその久々の夜だった。

付き合っていたのはもう20年近く前になろうとしている。お互い別々の人と結婚したし、生活空間も生活水準もキャリアもまるで別の世界の人になってしまったのだけれど、誘うと多忙な合間を縫って時間を作ってくれる。そんな蜘蛛の糸一本程度の繋がりをずるずると続けている。

彼女の前に後にも付き合った人は何人かいたが、それらの人は綺麗サッパリ絶縁してしまい、連絡先も知らなければどんな人生を送っているのかもまるで知らない。それは普通のことだと思う。彼女と私の関係だけが特殊なのだ。

付き合っていた時はいつも私が店を選んでいたなぁ、と思ったので、ちょっといたずら心であえて店の選定を任せてみる。すると案の定、彼女が店の選定を始めたのはは当日のことで、当然予約もできていなくて、候補の店に何件か門前払いを食らった挙げ句、私の知っている店に落ち着いた。こういう無計画さと、街を右往左往する間の抜けたやり取りを楽しむ余裕に懐かしさを覚える。妻とだったらこんな手抜かり絶対に許されないなぁ、と日常がいかにピリピリしたものなのかを改めて認識する。 計画性の無さもそうだけど、集合時刻に平気で遅刻してきたり、未読の赤丸が乱立するスマホのトップ画面など、端々に出るルーズさが懐かしく、愛おしい。

お互い三十代になり、世間に揉まれて角の取れた今、付き合っていた当時の未成熟な思い込みや愛情の伝え方、すれ違いを振り返り、一つ一つのエピソードを笑い飛ばしていく。あのときのあれは何だったの?という答え合わせを重ねていく作業は、むかし夢中になって見ていたドラマの再放送を大人になってから改めて見るような面白さがある。あのときはイケてると思っていたことの滑稽さや、当時は見逃していた感情の機微など、より厚みのある物語として味わい直すことができる。10年以上前のエピソードなのに、双方がかなり詳細まで苦もなく思い出せるし、記憶違いのないことを嬉しく思う。それだけ濃密だったし、真剣に向き合っていた。それは相手も同じだったのだ。

興味深かったのは、当時の愛情表現の自己評価と他者評価が大きくズレていたこと。私は当時の自分を自分本位だったと恥じ、彼女は当時の彼女を重たく依存的だったと恥じた。しかし私は彼女を重いと思ったことはないし、彼女は私を自分本位と思ったことはなかった。

不意に、まだ付き合っていた頃のことを回想する。当時、関係を解消したのは私からだった。

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