un deux droit

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「傷ついた」は禁句表現

今日は一睡もすることなく、妻と口論。声を聞いただけで虫酸が走るレベルで、互いに嫌悪感を募らせている。

口論の発端はいつだって些細なことだ。戦争勃発前までは和気あいあいと過ごしてたのに、なにかしらの掛け違いが起きると一切の歯止めが聞かず、終末まで転がり落ちてゆく。

私達の転落のトリガーは、妻の「傷ついた」発言だ。「傷つく」という表現はいしか強い意味を含んでいる。「悲しい」「つらい」はどちらかといえば自然発生的な心の機微だ。しかし「傷つく」の場合だと必ず「傷つけた」加害者の存在があって初めて成立する単語だ。「傷つける」客体がいて初めて私は「傷つく」。つまりたった1つの感情表現で、なんの根拠もなく他者を有罪認定できる、誠に便利すぎて無敵な単語なのだ。

妻はその効用を悪用して「傷ついた」を乱発する。あんまり乱発されると、そんなに私は悪いやつなのかとすごく嫌な気分になる。しかし妻は「私が傷ついたという事実はあなたには動かせないのだからあなたは謝るしかない」という無敵ロジックで迫る。自分がショックを受けたという感情的な動きは間違いなく本人の中で独立して生じている。しかしその原因が私の行為によるものだと断定し断罪するのならば、厳密にはその判断の正否について客観性が求められる。「自分はあいつを有罪だと思う」という自己申告がすべて採用されるのならば、なんの根拠もなく周囲をゆう最多とまくしたてるやつが大量に発生する。そしてそれは誰かを有罪にしたもの勝ちの不毛なトーナメントとなり、最後の一人になるまで続けられるだろう。それくらい、自己申告の有罪認定は馬鹿馬鹿しいものなのだ。

しかしそれを妻はやってのける。「あなたが傷つきやすすぎる場合もあるよね」「そんなに何でもかんでも傷ついたって騒ぐの卑怯じゃない?」と抵抗すると「私が言いがかりをつけていると言うのか」と火に油を注ぐことになる。こちらの言い分を挟む余地のない絶対服従ワードを大量摂取した私は「傷ついた」という単語を聞く度に過敏に反応し頭がカッとなる。花粉症と同じ原理。そういう反則技で私を反省させようと強いる妻の姿を見て
、親愛や尊敬の気持ちがまるきり無くなってしまった。
自分に落ち度のないところは微塵も引き下がりたくない。そんな温情を見せてやる義理などない。これまでは多少の言いがかりならごめんごめんと話を合わせてやる余裕があったけど、それは相手に対する好感や尊敬が土台にあってこそだ。人を人として扱わない輩には完全に理詰めで立ち向かう。しかし夫婦関係にロジックを持ち込んで破綻しなかったカップルを私は知らない。