un deux droit

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子を産むことへの社会的圧力を減らそう

昨日は育休から復帰した女性の同僚とオンラインで営業の打ち合わせをした。元々痩せ型だったが更に痩せ細って頬がこけていた。快活なキャラクターはそのままなのだが見た目が変わりすぎていて動揺を隠せない。控えめに言って5歳は老け込んだ感じ。在宅なのかよれっとしたパーカーを羽織り、その艶のない生活感がより哀愁を誘う。よほど出産とその後の育児が過酷なのだろうと推察する。


今年の出生数が80万人を割り込むらしい。そんなニュースを目にする。10年前に100万人割り込んだと騒いでいたが、そこからの転落もまたすごいスピードで驚く。

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経済的な不安とか出会いの減少とかいろんな原因が挙がっているが、私は端的に出産という営みの過酷さが忌避されてるだけじゃないかなと思う。プレパパ教室で、出産で母体にかかる負担は「交通事故にあったようなもん」なんて言われ方をされてたのが今も強く印象に残っている。ああ、私が妻に子ども欲しいと申し出るのは、妻を横断歩道に突き飛ばすようなもんなんだなと思った。考えてみてほしい。「1年間で80万人の女性が交通事故に遭う選択をしました」と読み替えたら結構な人数だと思わないか。ほんと、女性の勇気には感服する。ちなみに比較するもんでもないけど、2021年の交通事故数は30万件らしい。

女性は妊娠がわかってから1年近く嘔吐や食欲不振、精神不安定などの体調不良が続く。お腹が大きくなってどんどん身体的負担も増える。そして交通事故レベルの衝撃を受ける出産。その傷の治癒もままならぬうちから新生児を育てさせられる。母乳という名の血を吸われる。回復のための睡眠をさせてもらえない。見た目の変化に衝撃を受ける。人によっては切開で一生残る傷を負う。これらの身体的負担に加え、無神経な親族や同僚の応対に神経を削り、マミートラックにぶち込まれて社会的地位を剥奪される。これが妊娠出産の現実で、その様子を隣で見ている女性が私も産みたいと思わなくなるのはとても自然なことだと思う。私が女性なら子どもを身ごもるなんて絶対に勘弁だ。

妻も表面上は子どもを望んだが、それが本心だったのかは今となってはよくわからない。多分に世間体があったと思うし、いずれは子を産むという刷り込みが幼少期にあったのかもしれない。あるいはホルモンの影響で子どもがほしいと脳が錯覚させられていたか。そうだとしたらあまりに酷な本能だと思う。自分の身体を犠牲にして次世代の生命体を残せと脳から指令が出て抗えなくなるのだから。

少子化をけしからんと嘆くのはもう止めにしないか。少なくとも産む能力のない男はこの問題について女性を責める立場にない。それから子どもを産んできた先輩女性も、自分が越えてきた苦しみに向き合わない女性を責めないでほしい。責めたくなるということは、自分自身も子どもを産み育てるということに何かしらの納得のいかない思いがあって、その道を選ばない人をズルいと思っているのだと思う。同じ苦しみを分かち合う人を増やすのではなく、自分の代で連鎖を止めようと思ってほしい。

社会が回るとか回らないとかは、一個人の人生とは何ら関係がない。子どもが少ない前提で社会の側が設計を見直すだけだ。個人の選択に責任転嫁してはならない。金やるから子ども産めよ、ではなくて、先に子どもを産むという個人の自発的選択があって、それに対して社会側が勝手にありがたがって、医療費助成したり教育費助成したりしてお返しをするだけ。産ませるための政策ではなく産む選択をしてくれたことへの感謝の政策。見返りは何も求めない。次の子もよろしくと圧はかけない。あなたの出産は完全に個人的な自発的な選択なのだけど、たまたま社会としては産んでくれただけで万々歳なの。だから勝手な思いではあるけれど、あなたがそれ以上の負担を人生で負わなくて済むようにできる限りのサポートはしてあげたい。ただそれだけ。

いつか、子どもを身ごもった人が妊娠を打ち明けてきたら、「へぇ、それはすごいね(ただし褒めてはいない)」という完全に個人の自由選択とみなされる風潮になる日が来てほしいなと思う。金髪にするとか、ワーホリに行くとかと同じレベルに子を産むという行為がなりますように。