un deux droit

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男性は辛くなくて辛いのかもしれない

週末にまた男性育休セミナーを控えている。もう最初の育休から7年経つのだけれど、話し手側の人材は一向に増える気配がない。まぁ育休取り立て/取り終わってすぐでは育休ハイで俯瞰で見れないところもあるから、7年分の熟成した心境、見解を伝えられるよう頑張ろう。ということで今のうちに離すことをまとめておく。

最初にはしごを外しておくと、育児休業を長期間取得したことと、家庭の円満や夫の地位向上に相関関係は薄かった、というのがn=1だけど、あんどう家の結論。いつでも離婚危機。夫婦喧嘩は絶えることがない。育児休業を取ったところで娘たちが父親の肩を持つわけでもないし、尊敬や愛着を抱くわけでもない。ついでに言うと育休取得した男性自身が、父親としての自覚が強まったり、人間的に成長するわけでもない。男性がもちろん育児休業を取得して家事育児を担当できるようになることで家庭が円満、夫婦仲が良好、親子の絆が深まる「可能性」は高まる。しかしそれを「保証」するわけではない。どちらかと言うと、男性が育児休業を取得「せず」、家事育児を担当「できない」ことで、家庭が不和、夫婦仲が険悪、親子の絆が薄まる「危険性」が高まる、といったほうが現実に近い。育休取手子育てにコミットしたのに離婚した夫婦もゼロではないし、家事育児に夫が全く関与しない家庭でも良好な関係を構築できているケースもある。こればかりは夫婦双方の価値観と夫婦双方が提供できる経済環境とのマッチングなので、結婚・妊娠する前に、お互いいいカッコをせず、しっかりと本音で話し合おう、ということしかアドバイスできることはない。

特に男性は、どれだけ甲斐性なしと思われようと、頼りないと落胆されようと、自分の本性が自分勝手で子どもに関心が薄くて女性を性欲のはけ口としてしか見ていないのならば、その無責任さを率直にパートナーに伝えてお別れした方がいい。そういう男性が結婚や子を授かることで心境が変化することはごく稀にあるかもしれないが、基本的に結婚する資格がない。世間体もあって結婚をしなければと自分に圧をかけて、本性を隠蔽し、ファミリーフレンドリーに一時的に振る舞うことは可能かもしれないが、それはいずれ長い時間をかけてボロが出る。結婚する資格がない、他人を幸せにできない、自分勝手にしか生きられないことは必ずしも悪いと断罪できることではない。それが自分なのだと割り切り、胸を張ってシングルとして生きていこう。そこで無理して背伸びしても、結局望まぬ生活を強いられて苦痛を感じるだけだし、そういう人間が家族を殺したりする。

特に、現代社会は格段に便利になり、煩わしい人間関係もその場その場の刹那的な気分で切ったり貼ったり自在にできるようになっている。だから現代人は思い通りにならない事に対する耐性が著しく低下している。結婚なんてのは、最も思い通りにならない「赤の他人」と24時間365日同じ空間をともにすることを意味するわけで、飲み会一つ行くのにも、常に融通、交渉を求められる。うわーそれは不自由、地獄と思うのならば結婚に変な夢を抱かず潔く撤退するべし。(ちなみに私は長女が生まれてこの方アルコール摂取は年1回未満となっている。)

結婚は大人同士の関係なのである程度互いの自由を尊重できる。だからDINKSで幸せに暮らす夫婦も多い。金も自由になって良いことばかり。しかしここに子どもができると「煩わしさ」は指数関数的に上昇する。人生の起床時間の9割を子どもに捧げ、子どもを優先する暮らしが続く。感覚的に慣れて、子どもが熱を出しても「あーはいはい」と1分後に有給申請してアポイントを全キャンセルしても何も不快感を覚えなくなる仙人の域に到達することも可能だが、会社の風土によっては嫌がらせを受けることもあり、煩悩からの解脱はなかなか大変だと思う。

そうして仙人の域に到達した私がなお家庭の不和を抱えるのは、男女の不平等性についての部分。女性という生き物は本当に大変だ。私含め多くの男性は生理を舐めているが、月1回、1週間ほど流血が続く、というのはとんでもないことだ。男が日常生活で流血することなど、よほど危険な暮らしをしていなければ年1~2回の話。しかも表皮の擦り傷切り傷程度である。身体の内側から毎月100ccほど血を失うというのは妻の感覚的には「内臓を剥ぎ取られている」気色悪さらしい。その2週間後には排卵日。女性はそうやってちょこちょこと、極端に言えば人体の一部を欠損しながら日々生活している。そんな人達に平等・公平を求めるのはむしろ平等・公平の精神から遠い振る舞いだ。「常にけが人」と「常に元気ピンピンな人間」がきっちりと公平に家事や育児を負担すればどっちがより多く苦痛を味わうのか火を見るより明らかだ。明らかなんだけど、女性だって本当は元気ピンピンでありたいと願っているわけで、あるいは心身の不調をあまりに表にしないよう育ってきたわけで、元気でなくても多少無理して頑張ってしまう。男性(私含む)は大概無神経だから、その姿を真に受けて「元気なくせに俺にこれ以上もとめてくるわけ。俺ばっか負担重くない」と不満な態度を示してしまう。その不満な態度が女性には「凄んでいる」ような恐怖を煽る。男性にはその気がなくとも、女性にとって男性は、常に脅威な存在である。決定的に決裂したときに、男性は女性を物理的な暴力で屈服させる事が可能である。片方だけ核爆弾を持っているようなもん。男性自身に自覚はなくとも、である。

「基本的に健康である」
「いざとなったら暴力がある(と思わせられる)」

この2点は男女関係における平等性を毀損する絶望的な差である。その差は「ちょっと重たい荷物を持ってやる」くらいのことでは埋めがたい。こんな特権的な立場でいながら、その恩恵を受けている自覚なく、多くの男性はのほほんと過ごしている。もちろん私も。この話は何度となく妻にされているが、自分が女性になれない以上その苦痛や脅威を生で体験することはできず、想像で補うしかない。その想像力の足りないところでいつも諍いが生まれる。ミスチル桜井に言われるまでもなく「男女問題はいつも面倒」なのである。

というわけで、「育児の負担をどれだけ男性が担えるか」なんてことは入り口の入り口にすぎず、とても甘っちょろい話である、というのが結婚10年目のひとまずの結論。譲れるものを全部女性に譲ったところで多分男性の方がいい思いをして暮らせている。しかし体感的にその状態は不平等に感じる。その不平等に不満を感じないくらい女性という存在を愛おしいと思えないならば結婚はおすすめしない。ここに書かれているようなことに全く共感しなくても、社会で問題が表面化することはそれほどなく、どの仕事にもつけなくなるなんて極端なことにはならない。男女ともに下手に交わらず、人生はもっと快適に過ごした方がいい。

一方で、
「女性の宿命について男性の立場で思いを馳せ、理解しようと努め、その理解が足りなくて傷つけ傷つけられ、という苦しみを日々の生活で味わうという経験」
をしない人生は、世界の半分の理解を放棄したに等しいとも感じる。不愉快なことこの上ないが、豊饒な経験でもある。快適で退屈な人生と、不愉快で豊饒な人生のどちらかしかないのが、人間社会の複雑で味わい深い側面なのだと思う。