un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

学習は用途の検討と常にセットで

6本入りのチョコチップパンを、早起きした長女が4本食べた。いや、いつも次女と半分こしてるやん。なんでそんなことをいちいち言わないと考えられないの、足し算引き算できるって得意になってるけど、普段の生活で使おうとしなけりゃなんの意味もないからね。そんなことを言った。
最後の一行は万感の思いを込めた。自分含め出会う人出会う人、学びと実生活がまるきり分離してしまっている残念なケースがあまりに多い。
「何を学ぶか」と「それをどう活かすか」をセットで考える習慣をつけていかないと、学ぶ行為がどんどん苦痛になるか、ただの暗記マシーンに成り下がる。
子どもの時は「学ぶ題材」ばかりがあって「学びを活かす対象」はあてがわれない。しかし、大人になれば「学ぶ題材」と「学びを活かす対象」の登場頻度は逆転する。「何を学ぶべきか」は提示されない一方「何らかの学びを得て、活かさなければどうにも前に転がらない問題」ばかりが毎日立ち現れる。過去に学んだことのセットだけでは太刀打ちできず、常に学び続けなければならない。そして、学びの転じ方を習得していないと、逆算して何を新たに学ぶべきか選択できない。自分が義務教育のころは詰め込み教育の最後の切れ端みたいな時代で「いいから覚えろ、使い道はいずれわかる」という風潮が残っていたが、大人になる頃にはアウトプットの仕方を丁寧に手ほどきしてくれる社会的余裕が崩壊していたのでずいぶん苦労した。
アウトプットといっても大層なことではない。多分に心の問題だから。6本のパンの分け方は無限にある。総取りしてしまう、あるいは自分が欲しい分だけ取ってあまりを残りのメンバーにトリクルダウンすればそれでよろしい、あるいは将来の他人の分までも欲しがって差押えするなんて考える人も現実には存在している。そういう人たちは幼少期に「学びそのものよりも、それをどう活かすのかを考えることのほうが遥かに大事だよ」と教えられたのだろうか。その結果の行為だとすれば救いがないけど。