un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

怒りの感情で人をまとめることはできない

日本では平等で対等で平和を愛する人は、左寄りの人たちの言説に馴染むことになる。
そういう人ばかりツイッターでフォローしていると、大抵いつもみんな誰かにプリプリ怒っている。
左寄りの人は潔癖で正義感があって不正が許せないから、今の政治や社会の状況があまりに酷くて憤慨せずにはおれないのだろう。
気持ちは十分わかるし、その切れ味鋭い論説の数々には頷くことの方が多い。
けれどもその怒りの吐露は、彼らが最終的に実現したい社会の到来には、残念ながら貢献しない。それどころか怒れば怒るほど遠ざかる。怒りはどこまで行っても拒絶の姿勢だからだ。
拒絶の姿勢をベースにして生きていると、結局肝心なところで些末な粗が気になって手を組めない。その潔癖さゆえに本来は味方になりうる人にも牙を向いてしまう。そして結局はそれぞれが孤立化してゆく道を歩んでしまう。
人は不完全だ。どこまで行っても。いつかは何かを必ず間違う。偏見からなかなか自由になれない。卑しさや醜さのない人はいない。そのことを認めて許容できないと、いつまで経ってもまとまることはできない。
みんなが求めているのは何一つ不正のない世の中ではない。もちろん不正のないことに越したことはないけれど、〇〇がない社会、というのが人の憧れるビジョンとしては、弱いと思う。もっと具体的に、これがある社会にしよう、人生にしよう、という目に見えて手触りのあるビジョンを打ち出すことが大切だ。
何かを無くすのは実に難しい。検証もできないし、実は何も生まれない。
それよりも今まではなかったこれがある、と言えるものを一つでも多く作っていこうとすることなら、一歩ずつでもできることはある。その方が前向きだし、人が気軽に賛同でき、集い、力を合わせることができる。いがみ合うことなく。
政治家の人もマスコミも不正を暴き、相応の罰を受けさせたくて仕方ないんだろうけど、宿願かなって悪者を根こそぎ痛い目に合わせたとして、その後はどのみち焼け野原なのだ。怒りは対象を失った途端無力になる。そこが怒りの限界であり、最大の弱点なのだ。
怒りを持つなということではない。怒りのウエイトをもっと落としたらどうか、ということだ。過去の不正に目をつぶる必要はないけれど、不正を暴いたところで失われた利益は戻ってこない。それよりも大事なことは未来の不正を生まないことだ。
ワクワクするビジョンは怒りよりも長持ちする。もちろんワクワクするビジョンなんて簡単にはできないし、怒ることの方が簡単だ。でも安易に怒りに逃げないで欲しい。怒りに身を任せず、希望で人を束ねる人が一人でも現れて欲しいなと願っている。