un deux droit

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愛と結婚の埋まらない隔たり

私はかつて、分不相応な大学に在籍することができた。
分不相応というのは、学力的な意味ではなく、将来の確たるビジョンという意味において、である。
私はその大学の求める学力を持ち合わせていたが、その学力を用いて何を学び、その学びをどう社会に還元するかのビジョンがまるでなかった。残念ながら日本の大学入試制度では、そういう人間を未然に弾くシステムがない。私はシステム不備の恩恵を享受することができた。
私はその分不相応な大学に入って、分不相応な彼女ができた。彼女は大学在籍期間をどのような研究に捧げ、その後どのような職を選択し、最終的にどのような活躍を遂げたい、という明確なビジョンがあった。当時は分不相応とは思わないくらいに思いあがっていたけれど、真剣な交際の果てに人生を共に歩むパートナーとしては、私は甚だ適性を欠いていた。そのことに気づくのに、実に3年の時間を要した。
それでも私たちはなぜか惹かれあい、結婚の約束をしていたし、お互いの実家に顔を出して良好な関係を築いていた。私の気持ちが変わったのは就職が決まった4年の春のことだった。
私は冒頭に述べた通り将来のビジョンがなかったので、何となく面白そうな会社に脈絡もなく応募して、最初に内定を出してくれた会社に入社を決めた。即答でお願いしますと答えた私に、保留されると踏んでいた人事担当者が呆気にとられていたのをよく覚えている。向こうが内定出しているのに、本当にいいんですか?と聞いてくるくらい混乱させてしまい申し訳なかった。
彼女に内定の報告と、翌年東京に行く旨を伝えると、じゃあ私も就職しようかな、と彼女はつぶやいた。本人は私より一学年下の理系で、院への進学を希望していたが、そうするとしばらく遠距離になる。ならば1年後に都心の会社にでも就職して一緒に暮らそう、と考えたようだ。
私も就職が決まるまではそのプランを希望していたが、実際に会社が決まってしまうと、途端にそのプランが危うく思えてきた。私のチャランポランな人生選択のために、彼女の計画的に積み上げてきた人生プランを粉々に砕いて良いのだろうか。私は20代のうちに結婚し、子どもさえ授かれば後は万事オッケーという凡庸な将来像を描いていた。しかしその凡庸なプランに彼女を巻き込むには、あまりに彼女の負う犠牲が大きすぎやしないか。彼女はそれでも構わないと言ったが、自分に後悔させないだけの器はないと思った。要するに怖気付いたのだ。

散々泣かれ、罵られ、恨み言を言われたが、なんとか別れることができた。幸いにもその後彼女は私よりもっと将来有望で、互いのキャリアを尊重できる男性と巡り合い、結婚したらしい。結婚はしたものの子どもは作らず、遠距離婚のまま旦那は研究所、彼女は当初の計画通り、大学の研究室と企業のキャリアを往復しながら存分に活躍しているそうだ。私が望まなかったような生活スタイル、家庭のあり方を体現しながら充足した人生を歩んでいる姿を見て、あの段階で別の道を歩んで正解だったと思っている。これだけの活躍可能性がある人を危うく家庭に押し込めるところだった。私は私で凡庸だがありがたいことに子宝に恵まれ、望んだ暮らしはできている。私の妻は妻で私のプランのなさを最大限活用して、私に最大限の家庭への貢献を誓約させて、子育てを楽しみながら自分のキャリアの犠牲を最小限にして働きまくっている。
別れた後もFacebook上の友人関係は残っていて、そのために年に1度、彼女の誕生日がリマインドされてくる。その度にほろ苦い気持ちに襲われつつも、彼女のキャリアを犠牲にしなかった決断の正しさを再確認して、じきに忘れる、というしょうもない回想を毎年繰り返している。結ばれないということを選ぶことで示す愛もある、ということにしているんだが、たぶん偽善だな。愛は肉体的、感情的なものだが、結婚はシステムだ。恋愛の延長線上に結婚があるくせに、全く別の資質が求められるんだから結婚というのは随分厄介な代物だなと思っている。