un deux droit

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【書評】仕事も家庭もうまくいく!共働きのすごい対話術

コミュニケーションのすれ違いで衝突してうんざりした一昨日の朝、Twitterでサイボウズの青野さんが紹介していたので思わずポチる。もう藁にもすがる思い。どうか俺をこの地獄から救っておくれ。


一読して夫婦の課題が綺麗にスクリーニングされた。まず私に家庭ビジョンがない。どんな暮らしをしたいとか、子ども達にどんな経験をしてほしいとか、そういうものが乏しい。日々ケセラセラで生きている。

そしてそのことが妻のモヤモヤに着火させる。妻はとにかくビジョナリーな人間なので、ビジョンに反するように見える行為が許せない。私のやることや、やったりやらなかったりすることのランダムさが、時として妻のビジョンに反しているのではと疑念を持たせてしまう。あるいはなんでも妻のビジョンにハイハイと迎合するのでそれも耐え難い。妻は、自分のビジョンさえ叶えばどうでも良いわけではなく、あくまでパートナーと2人で考え、擦り合わせたビジョンが実現した、という立て付けが必要らしい。その割に妻のビジョンは強固過ぎて、ビジョンなしの私からすればいちいち抵抗するまでもない、もう言いなりでうまく行くじゃん、と口を挟む意欲を損なう仕上がりになっている。余白がない、窮屈なものに感じるのだ。

そしてこの本のメインテーマである対話。私はここで書かれている対話のほとんどを忌避している。私からすると相手の望まぬこと、想定外のこと、不愉快なことを臆面もなくずけずけと言う行為が「対話」ということになる。わざわざ相手を苦しめて追い詰める行為だ。だからできるだけ控えるのが配慮の行き届いた行為だと思っているし、そう接してもらいたいと願っている。そしてこの本では私の態度は「対話」の拒否であり、妻の行為こそ「対話」の正しい手法である、と書かれている。ジーザス。

妻の唯一の反省してほしい点はメッセージが全てアグレッシブであること。心理的安全性ゼロ。でもそれは私が先に着火させてるんだからそっちが着火させなければいい話、の一点張りなので妻の態度の緩和は望めない。それが悲しいポイント。

ただ、対話が苦手な男性は結構多く、時間をかけて自分の見解をまとめるタイプの人間も一定数いてそれは相手を無視しているわけじゃない、という記述を見て「それ俺!」と叫びたくなった。というか脳内では叫んでいた。妻はこのことに理解を示してくれないので随分救われた。

自分が明日からできることは、「ごめん今話せない」「ごめんそれは調整できない」「ごめんそれには応じられない」と配慮しながらその実全然融通してくれない自分本位な態度が、かえって相手を尊重した態度となるというパラドックスを受け入れることだ。堂々と自分を大事にすることが、相手を信頼している故の行為であると相手が受け止め、そう信頼を寄せていることが精神的なつながりを強くする。人間関係はそんな構造になっている。逆に、「反対意見を言ったり、要望に応じなかったら臍を曲げるかもしれない」と恐れ、相手の主張に迎合する行為は、「相手が私の意思を大切にするつもりがある」ということを信頼していないことを意味する。迎合を示すことは「こいつは自分さえ良ければいいんだ」「人を意のままにしたいと思っている」とあなたのことを評価していますよ、というメッセージになる。だから迎合を喜ぶような低俗な人間か、迎合だと気付かないくらい低知能な人間であると私が相手を低く見ているという意味を孕む。だからパートナーから迎合されるということはある程度素養のある人間からしたらむしろ侮られている気持ちになる。うーむパラドックス。

対話の嫌いな私が対話を続けるためにはある程度戦略的に忘却するということも必要だなと思った。対話は耳の痛い話が多い。どうしても自分の至らない点の指摘や改善を求められる内容になる。それを同じ相手から聞かされると、つべこべうるさいなぁという気持ちになる。何か言われた、という鬱憤が蓄積していくのだ。空気のピリッとする内容を直言したら、少し空気が整うまで何か指摘をすることを手控えろ、次から次へと言われたら面白くない。そんなことを妻に告げたことは何度もあるが、こちらは忙しいからそんなの悠長に待っていられない、マシンガントークでやると言ってきかない。なので、自己防衛として対話コンテンツの内容が途切れるごとに「別の人」からクレームが来ている、ということに脳内ででっちあげるのだ。

例えば電気つけっぱなしよ、と言われた後に、これまだ捨ててないじゃん、ここの掃除がいい加減、と続け様に言われると、私は次第にムッとしてくる。妻から3つも文句言われた、となる。電気はAさん、ゴミはBさん、掃除はCさんからされたのだ、と脳を誤魔化すと、それぞれの人からは一つずつしか指摘を受けてない。電気のことをAさんに指摘された後にゴミのことをBさんに言われたとして、「Aさんに怒られたばっかりなのになんでBさんも怒るんですか」と逆恨みする大人はそうはいないだろう。それぞれ全く無関係の事象として切り離すと意外と気持ちにしこりは残らない。そして言う側の妻も、テーマが変わるたびに私の感情がリセットされるのは案外歓迎の様子。私がイライラしていなければいくらでも言いたいことがあるからだそう。妻のメンタルと言語生成能力は驚くほどタフである。とほほ。