un deux droit

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育児は「役に立つ」というより「意味がある」

 昨日は長い戦いだった。

19時過ぎに寝てしまった次女がぐずりだしたのは23時半。それから目が冴えてしまって絵本を読んだり家を徘徊したり思うがままに散らかして回ってようやく力尽きたのが2時半。ちょうど3時間の激闘をやり終えた。

18時に帰ってきて夕飯を作り、子ども2人を風呂に入れ、就寝させたのが21時だから、今日の家事育児労働は6時間。朝のお世話の6時〜8時も含めるときっちり8時間。フルタイム労働を2社分こなしたことになる。もちろんインターバル休暇なんてものはないし、ここで過労で野垂れ死んでも労災認定は降りない。何が楽しくてこんな苦行を日々繰り返しているのか自嘲気味である。

そんな疲労困憊状態で1社目から2社目(家庭)への移動時間で「仕事ができる」とはどういうことか、という本を流し読みした。

 

「仕事ができる」とはどういうことか?

「仕事ができる」とはどういうことか?

  • 作者:楠木健,山口周
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2019/12/16
  • メディア: Kindle版
 

 

その中で、仕事の価値が「役に立つ」ものから「意味のある」ものへ移行している、というようなことが書かれていた。
国産車は輸送手段としては役に立つが、それ以上の意味を持たない。フェラーリは走りにくくて輸送手段としては役には立たないがオーナーにとって特有の意味を持つ。だからバカ高い価格で売れる、という話だ。
このエピソードを読んで、あぁ、私にとっての育児もこれだ、と思った。
つまり、育児の日々は私の人生にとって明らかに役に立っていない。慢性的な睡眠不足と回復困難な疲労を日々蓄積して、本業のパフォーマンスを圧迫するだけで、子育てに励んでいることでそのエピソードが本業になんらかのメリットをもたらすことはほぼない。お客さんとの雑談ネタが一つ増えただけ。明らかに苦労と釣り合わない。なので己の人生に役に立つか、という切り口で育児を捉えると邪魔なものでしかない。
そんなわけだから、育児スキルは仕事にも活きる!といった言説には安易に与することができない。育児で得られるようなスキルを得たいなら、シンプルに仕事で得た方が余程手っ取り早いし、スキルを得るプロセスで評価や報酬を積み上げることができる。
育児の価値を「役に立つ」切り口で言いたい人はその方が男性の育児参画が増えると思っているんだろうけど、実際に育児に携わっている身としては流石にそれは無理筋なんじゃないかと思う。役に立たないし、役立つかどうかという価値観でしか物事を見ない風潮に棹差すだけなので黙っていてほしい。
じゃあ育児にどんな意味があんねん、と問われるとひどく個人的な理由しかないので書かない。少なくとも他人から影響を受けて子どもが欲しくなってる時点でスタートから間違ってる、ということだけ言っておく。