un deux droit

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晴れ男でござい

私がかつて育休を取得していた時期、最も印象に残っている文章がある。

dentsu-ho.com

私はこれを一読したとき「悔しい」と思った。自分とほぼ同じ経験をしながら、こんなに多様な着眼点があるのか、こんなに鮮明な言語化ができるのか、と感嘆した。さすが電通。言葉で飯を食ってるだけあるわ。一般人のブログなどお話にならないな、と打ちのめされて、自分の体験を文章にする意欲の湧かない時期がしばらくあった。「魚返」という著者の個性的な苗字も、初読から数年たった今でもなぜか頭に残っていてすぐに検索がかけられてしまう。自分にとってはそれほどの衝撃だった。こういう人がザクザクと荒稼ぎするんだろうなぁ、と自分と違う世界の住人に勝手な羨望を抱いていた。

この文章の中に「ハレ」と「ケ」についての言及がある。詳しくはリンク先に飛んでもらえればと思うが、育休界隈にのこのこ出てくる男どもは一様に「ハレ」の場での棲息を好む、という話。週末の親子イベントみたいな「みんなに見える」「はっきりと成果がわかる」機会では喜んで「イクメン」を気取っているが、そんなメリハリのある時間はむしろ例外的で、乳児の育児というのはともすれば「変わり映えのしない」「退屈な」日々の連続である。そんな平坦な日々の中でほんの些細な変化や発見を寝不足の頭でぼんやりと喜ぶのが「ケ」の育児を担当している親の味わう体験。同じ育児、同じ子といえど、育児のどの部分に携わるかで「子どもを育てること」の意味付けに埋めがたい隔絶が生じる。家庭内でも「話し合わんわ」となるし、父親同士でも「話し合わんわ」となる。幸か不幸か日本の母親は男性の非協力的な環境に置かれて均質的な経験(苦痛)を得るので、母親同士の話は「割と合う」のかもしれない。

私はこの文章を読んで「ケ」の領域を積極的に引き受けようと心に決めた。地味で目立たない保守部門。日用品の在庫の管理とかシーツの洗い替えだとか習い事の計画だとか行政回りの検索や問い合わせだとか、そういう「日陰」の仕事こそ家庭をメンテナンスする重要な役回りなのだが、「ハレ」の人間はその価値になかなか気付けない。「俺はこんなに頑張っている」と「ハレ」の役回りを並べ立て、「ケ」の役回りの人間を威圧して、問題提起を封じようとする。その状態が続くと家庭は間違いなく崩壊する。そうならないために「ケ」の領域がいかなるものか、そしてそれがそれほど高度で複雑で負担の多いものなのかということを理解することが大切だと感じたのだ。

妻は「ケ」のプロフェッショナルなので、私のやり方はいかにも不徹底に見えてストレスが溜まるようだ。しかし、不得手だからと避けていては妻の負担は増大するばかり。チクチク言われながらも妻の管理する壮大な「ケ」のワールドから少しでも担当領域を切り崩していかなければ、共同家庭経営責任者としてみなしてもらえなくなってしまう。自分の居場所を確保するために私は必死になった。食事は基本的に自分の役割。キッチンシンクの掃除。風呂、トイレ、洗面台の掃除。最近では掃除機がけや、洗濯物干しなども「特待生扱い」でやらせてもらえるようになってきた。任せきりだった書類仕事も積極的に取りに行くようにした。妻の私に対する否定的な評価が少しずつ緩和していった。


そんな中、次女の新しい保育園の説明会が明日ある。平日のお昼過ぎ。業務時間ど真ん中。「こんなんまともに働いてる人がどうやって時間作るんだよ」と思いながら午後有給を申請して時間を作る。コロナの関係で参加できる保護者は1名のみ。どうせ送り迎えは私が主担当で、私が全貌を理解していたほうが4月以降の生活がスムーズだろうと思い、「明日はわたしがいくね」と妻に伝える。
すると妻は怪訝な表情を浮かべる。「なんかやたらと乗り気だね。」どうやら妻も説明会に行くつもりだったらしい。これは「ハレ」ではなく「ケ」の仕事であり、それはできるだけ自分が取りに行こうと思っていたのだが、妻からすると「ハレ」の用事だったようだ。

「私が提出書類とか全部用意してアプリ登録とか済ませたのに最後だけ出張ってくるの虫が良くない」
「しょっぱなの顔合わせで父親が行くと、『あそこの家庭はおかあさんが育児に熱心でない』というふうに思われる。そこであなたがぴしっと説明会で要領を得た質疑応答をできれば『あぁ、あそこは父親が育児に熱心なんだ』という評価に変わる。つまり、あなたの態度次第で私や家庭全体の評価が決まる。その覚悟を持って説明会に行こうと言っているのか」
そう、妻は問い詰めてくる。

うーん。難解。
まずひとつ目の「虫が良い」発言はいただけない。園から書類が届いた日はちょうど私が転出手続きに市役所へ出向いていた日のことだ。私は私で休みをとって、住民課から子育て支援課、教育振興課とたらい回しに遭いながら住民票、子ども手当、小学校の転入手続きなどを済ませてきたのだ。待ち時間も長く2時間ほどかかった。おもいっきり「ケ」の仕事である。その裏で妻は保育園の書類仕事をしていたのだ。これもまた「ケ」であるが、互いに同時進行していたので私が書類仕事を片付ける物理的な余白がなかった。
そしてあんまり躍起になって「ケ」の仕事から妻を排斥しようとするのも不自然なことで、「できるひとができるときにやる」「できる機会を最大限つくる」ことができていれば「実際にやった」かどうか、あるいは「やったもの」のどちらが大変で負担が多いか、と比べるのは野暮だと思う。妻の保育園回りの書類仕事が私の市役所での奮闘より〇〇ポイント価値があります、なんて数値化していけば間違いなくギスギスする。妻は「市役所の仕事がなかったら保育園書類を片付けたかというとそれは怪しい」と証明不可能なタラレバを持ち出して、私が「『ハレ』しかやろうとしない男」の烙印をしきりに捺してこようとする。いっぱしの大人としての成熟を要求するくせに、それと同時に「おまえは半可者である」というマウントをしたい欲望を抑えきれない。

「実際に何があったのか、どういう行動をとったのか」という事実ではなく印象論で私の評価を決めつける。自分の携わるものは高度な知的労働で、自分の携わらないものは単純労働。事実としての不公平ではなく、あくまで不公平「感」が指標となる。そうなると常に「裁判官」件「原告」は妻になる。ここは牢獄ですか?

とりあえず、私は「ハレ」しかやらない男で、妻から「ハレ」の場を奪った男と認めた上で、「ハレ」を奪った以上妻の求める水準の受け答えを保育園と交わし、つつがなくミッションを遂行していきますという宣言をしてこの論争を集結させた。私が「ケ」を積極的に取りに行きたい男であるという名乗りは棄却された。これはなかなかにプライドの傷つく話だ。しかし他人が周りの人をどう定義づけるかをコントロールすることはできない。妻には「ハレ」男と罵られ続けながら、「ケ」に携わっているという自尊心を大切に守りたい。

それにしても、素直に「私が説明会に行きたい」って言ってくれれば話が終わるのにな。

「行きたい行きたくないの願望の話ではない」
「行くべきか行くべきでないかという話だ」
「あなたが言うべきだったのは『行ける』『行けない』の可能性の話だけだった」
「家庭のこととはいえ仕事なのだから『やりたい』『やりたくない』という尺度で決めてはいけない」
「それなのにあなたが『行く』と断定してしまったから、それを止めるには『行くべきでない』という否定か『行きたい』という願望を述べるしかない構造になった」
「そのどちらの選択も私はしたくない。あなたが行くべきでないとまでは思わないし、行きたいという願望があるわけではない。ただ私が言ったほうが妥当だ、くらいのものだった」
「私がそのどちらかを選ぶことで、あなたが私のことを『信用していないだな』とか『楽しみにしてたんだな』と誤って解釈されることを最も避けたい」
「そうなると私が行くという選択肢がなくなった。私は自分の望まないあなたからの評価を甘んじて受け入れるリスクを犯してでしか説明会に行くことができないのだから。それがひどいと思う。」

あー、めんどくさい。