un deux droit

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退職者の悪評

東京で働いていた時お世話になった部長が退職した。

お世話になったと言っても、専らプライベートでフットサルをしたり飲みに行ったりしていただけで、仕事で直接関わったことはほとんどなかった。

場所が変わってからはほとんど疎遠になっていたので、今回の報せは寝耳に水だったし、そういえばそんな人いたなぁと感慨深い気持ちになった。寂寥感はない。

疎遠になってからの彼の状況について、漏れ伝わる限りではいい話がなかった。

 

必要性の不明な出張や飲み会が多い。

お気に入りの女性社員へしつこく食事に誘う。

経営方針や施策に反抗的で、協力しない。

そのくせ主要PJに自分の名前がないとヘソを曲げる。

数字は上がらない。

 

端的にいうとかなら煙たがられていて、今回の円満退職は誰にとってもめでたい事柄のようだ。ちなみに彼は、当社よりは名のある、同業といえば同業の、ヒラ社員として新しいキャリアをスタートさせるらしい。彼にとって良かったのか悪かったのかはわからない。ただ純粋に彼の身元引受先が存在することに驚きを感じている。

 

ふと気になったことがある。上記の社内評価、本人はどのくらい自覚があるのだろう。みんな陰で言っているだけで、本人の耳には一切入らないように気を遣っているはずだ。本人は何となく煙たがられている冷ややかな目線だけを感じつつ、具体的な内容については言及されなかったのではないか。

人間は自己正当化する生き物である。それぞれの鼻つまみモノの行為も、本人にとってはなにがしかの筋があるもんだ。私は私のことをくそみそに言う妻が常に近くにいるおかげで、甘い自己評価と冷酷な他者評価を定期的に強制的に揃える鍛錬の機会をいただいている。でも普通はそんな機会はない。余程自分で気をつけない限り、自己評価だけが肥大化し、自分はこれだけのことをしてもいい、これだけのことをしても許される価値がある、と増長する危険性が誰にでもある。そんな恐ろしさをこの一件から感じた。当の彼も、根っからの悪人ではない。それなりの貢献もそれなりの善意もそれなりの能力もあったはずで、ダメなところを他人から定期的にやんわりとたしなめられつつ、良いところを伸ばしていけたら悲しいお別れにはならなかったのじゃないだろうか。そういう面倒くさい嫌われ役を買ってでる人がいないという意味においては、自分が今いる組織にも脆弱性がある。だからどうするというわけではないけれども、周囲の悪評ほど本人のことを憎んでいなかったうちの一人としては、もう少し当人の気持ちをフォローする優しさを傾けられたらよかったなとしみじみ感じている。