un deux droit

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ダメの貯金

今日は広報誌の編集会議の日。かねてから検討していた広報誌の冊子名リニューアル案について、メンバーに提示してみた。みな一様にいいねと反応があったが、右腕として頼りにしているメンバーが一人難色を示した。冊子名はこのまま変更なしで良いのではないか、と。

会議後、二人で話し合う時間を設けると、「変更案には賛成だが、変更したいと役員陣に提案し、承諾を取ってくるまでの部分で交渉の矢面に立ちたくない」という本音が聞けた。私が編集長という立場ではあるものの、平社員のため実際になんの権限も持っておらず、なにか大きな路線変更や経費の発生することはいちいち役員の決裁を取り付けなければならない。そして私が、福岡にいる関係で、社内調整ごとはなにかと東京に在籍している右腕に任せることが多かったのだ。

「あいつら絶対難色示すじゃないですか。何か今までと違うことをしようとすること自体にアレルギー反応出すんでウンザリするんですよね。で、がんばって議論すれはするほどどんどん態度が頑なになって聴く耳を持たなくなる。その結末がわかり切っているのでチャレンジしたくないんです」

私は、そうだよね、じゃあこれは自分がやってみるよ、と引き取る。そしてTeamsのチャットで名称変更の提案を投稿すると、ものの数分で社長からだめという返事が来る。だめな理由に理屈が通ってなかったのでその点を確認すると、どんどん屁理屈でこねくり回されてくる。めんどくさくなった私は、右腕の想定したとおり、相談内容は忘れてくださいと撤退する羽目になった。

右腕は、ほれみたことか、という態度だったが、私はこれで良かったと思っている。私の提案を筋の通らない理由で却下した、という負の実績を残したことで、社長の立場が悪くなったからだ。こういう後ろめたさの貸しを貯めていけば、本当に譲れないものを通すときに効果を発揮することがある。

手に入れたいものをできるだけ多く手にするには、「ほしい」と言いまくるに限る。これを遠慮して、本当にほしいときだけ言う方が一見手に入りやすそうに思うが事実は逆だ。くれる立場の人は内容の如何を問わず、基本的に何もあげたくないのだ。しかし、あれもこれも断ったという負債を蓄積しまくると、どこかのタイミングでその負債の大きさに心理的に耐えられなくなり、欲しいと言われたものをあげることで負債感をリセットしようとする。人は他人から訴えられた要望を断り続けることを苦痛に感じるようにできている。その弱さにどんどん容赦なくつけこんでいくのが、望みを叶える近道なのだ。

右腕は賢く、センスもあるが、そういう粘り気はまるで持ち合わせていない。もし学歴に未だに意味があるとすれば、それは賢さを図る指標ではなく、諦めの悪さを図る指標なんだろなとふと思った。