un deux droit

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妻は助手席にいない

もう少しマシなことも書こう。

妻となんでこんなに会話が噛み合わないのか、ということについて、一つ腑に落ちた例えにたどり着いた。

私は家族の会話について、1台のワゴンに4人全員が乗車しているようなモデルを脳内に描いている。話者が運転手、ならば合いの手は助手席の人間。子どもは後部座席。話題はいわば目的地であって、それは運転者が一手に握っている。助手席の人間は聞き手に回る。運転者が急停車したり、脇道に逸れたり、急にコンビニに立ち寄ってトイレに行ったりするのも、同乗者に一声かければ簡単にできると思っている。助手席の人間が話したくなったら運転を交代する。運転手が助手席に移動して運転を再開する。そして運転手の好きな行き先(話題)に向かう。どんな行き先であろうと同乗者は同じ目的地に向かっている。そんなイメージ。

しかし妻は、家族の会話はバイクのツーリングのようなものだと思っている。それぞれ単車に乗っていて、全員が運転手。誰が先頭を走るか(目的地=話題)は柔軟に変わる。そして先頭を走る人間は目的地への先導のためにかなり気を遣わなければならない。急に左折したりしたら他の単車は曲がりきれずに直進してしまい、すぐにはぐれてしまうだろう。互いにヘルメットをしていて視界も狭く、声も十分には届かない。見えている景色も微妙に異なる。それぞれガソリン残量や排気量も異なるので、そういったケアも互いに必要。その代わり1:3や、2:2に編隊を切り替えるのも自由自在。そんなモデルで暮らしている。

道理で話しかけても上の空だし、相槌も聞いていないし、滑舌が悪いと文句ばかりだし、話のゴールが見えないと不機嫌になるわけだ。また、妻の会話の時は私は妻の車の助手席に乗り込んでいるつもりで話を聞いているのだが、妻のモデルは単車なので、私の振る舞いは後ろにまたがって腰に手を回すスタイルとなっているはずだ。そうすると純粋にキモいし、運転の負荷は妻にばかりかかるし、妻のガソリン残量だけが減る。てめぇの運転はてめぇでしろ、というワケだ。

なるほどなぁ。ワゴンモデルは昭和の遺物というワケだ。自立した1人の父と、父に依存する母子。母が運転する場合も車の所有者は父。夫婦それぞれが経済的に自立していれば、ワゴンよりは安いけれど小回りが効き機動力のある単車で互いに快適に暮らせる。だから妻は事あるごとに離婚してもいいのよと切り出すのだな。元々別の車に乗っていて、並走しているだけなのだから。







それにしても、妻の単車がハーレーなのだが、原付の私はどうしたら良いのだろうか。