un deux droit

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家庭に対するエンゲージメントの枯渇

昨日は(というか今朝は4時まで)口論。きっかけは妻が寝る間際に私にある会話のダメ出しをしてきたことで、私はその件について妻の解釈が間違っていて、反応が過敏であると妻の言い分を拒んだ。妻は自分の言い分が丸呑みされないとすぐ戦争勃発するのですぐに罵り合いに。こういう結論になるのをわかっていたのに、私は今日も妻の最初の一撃に対して憤りをあらわにすることを我慢できなかった。


最近は妻の言い分について聞く耳を持てない。妻の言い分が無茶苦茶なこともあるが、それでもわかったよと受け入れることだってできたこともあったのに。寝不足の頭で今わかっていることは、私はもう妻が幸せになることに貢献しても、ちっとも嬉しくないということだった。

妻の言い分は「私の言う通りにあなたが振る舞えば、私の言う通りに物事の思考や捉え方を変えれば、社会と向き合う上でもメリットになる。だから私の言う通りにすることがあなたの利益にもなる」という理屈だ。たしかにそういう一面があって、私個人として人間関係が円滑になったなと感じたことがないわけではない。だとしても、私はもうその利益を得たくない。私は私のままで、自分の直感通りに生きて逸失した利益がいくらあったとてもう構わない。どう言い繕ったところで、結局は妻の利益のために私が犠牲になることには変わりがないのだから。

もちろんそれ自体は何もおかしいことではない。夫婦関係の継続というのは、パートナーの幸福を我が事のように喜べて、その実現に献身しあうことだと思うからだ。私はただ、妻が得る幸せに関心がない。だからそのためにわざわざ自分の時間を捧げたり、自分の振る舞いや思考を曲げる、変えるということを幸せと思えない。ただただ苦痛、拷問に感じる。だからそれを差し出せと要求されたら怒ってしまう。あなたはもう私から引き出す預金はないのだ。こうやって日々つつがなく生活を維持できるための金銭の獲得、互いに分担した家事育児を責任持って遂行するだけでもうたくさんだ。それ以上を私に求めることは傲慢だ。そんな気持ちになる。

私の心の預金がなくなったのは、ひっくり返すと妻が私の幸福を妻にとっての幸福に重ね合わせることをせず、関心もなく、貢献もしないことに端を発する。会話一つとっても私がしたい話に関心はない。すぐつまらないと打ち切りを求める。私が話したい話ではなく妻が聞いていて楽しい話しかしてはならない、ということだ。もちろん妻は自分の話したい話をする。私が聞いて楽しい話ではない。でも私は常識的なので、頭ごなしに妻の話をシャットアウトしたりはしない。そうして妻のしたい話が延々と再生される時間が流れる。やがて妻が私ばかり話して疲れる、相槌ばかり打ってないであなたもなんか話すことないのか、あなたにどんな日常があり何に関心がありどういうことに心動くのかが何一つわからない、一緒にいる人のことがわからなくというのは気色が悪いと機嫌を損ねる。しかし、いざ私が自分の話を始めると妻はすぐ辛抱堪らず、私の話の構成や使う単語の添削を始める。それが私の興を削いで、また私は自分の気持ちに蓋をして、妻に自分のことを開示することを封じるようになる。以下延々に繰り返す。

最近は妻だけでなく、子どもたちの幸せについてもだんだん関心が薄れてきた。これから来るクリスマスや正月で子どもたちの要求を叶えてやることを幸せと思えない。子どもが延々と続ける話を聞いていられない。家庭でのエンゲージメントが底をついた感覚がある。これは回復するのか、はたまたもう関係を清算したほうが良いのか。判断するのも億劫だ。

とにかく眠たい。