un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

透明度が高まってきましたよ

今日で小学校の前後期の境目に発生する謎の給食なし週間が終わり、ラストの弁当を仕上げて平和な日常を取り戻した。

か、に、見えたが、帰宅後に罠にはまってしまった。

帰宅後は妻のルーティーンである一日の出来事を拝聴する時間があるのだが、そこでの相槌を仕損じた。妻が一日体調不良で外出予定をパスした話を聞いた時に、思わず「ははっ」と愛想笑いをしてしまったのだ。

「今なんで笑ったの」

妻はどんな些細な手抜かりも見逃さない。特に生理中は。

この場合の愛想笑いに意味を問われてもそんなものはない。強いて言うならば、どちらかというと残念な話題を自虐的に話す相手に柔らかく同情するサインだったり、自分ばっかり健康体で自由に外出できている気まずさを紛らす迷彩だったりする曖昧な同調だ。

しかし妻はそれを嘲笑だと受け取った。受け取り手がどう解釈するのも自由だろ、と。リバタリアンここに極まれり。嘲笑だけは違うでしょ。仮にもパートナーである人の不幸をただ嗤うだけのやつがいるわけないじゃない。でもそれ以外の意味が思いつかなかったから消去法で残ったのがそれだったんだから仕方ないじゃないと妻は言う。およそ機微というものが妻には備わっていないことを、私はいつも甘く見てしまう。

妻は重ねる。あなたが私の言動を受けていたたまれなくない気分になるのは勝手だけど、いちいちそれを態度に出すな。お前は演者じゃない、観客だ。ただ私の話を席に座って聞け。いかに話題が自分に関連するものであっても勝手に舞台に上がってくるな。舞台に上がれと私が言った時だけ会話に参入してこい、と。事実を伝えながら間接的に聞き手に対する意図や感情を込めるようなことを妻はしない。文句があるときはそうストレートに言う。そのことを信じて、いかに自分の立場が危うい話題であっても妻が具体的に私の批判を始めるまで、さも他人のことのように飄々として耳を傾けることだけしていろとのこと。理屈はわかるが感覚に馴染まないので妻と私で生存する領域に段差をつけて交わらないようにしたい。

昔読んだ漫画、おそらく金田一少年の事件簿だったか、『アウトオブ眼中』というパワーワードがページの隅に踊っているコマがあった。今でも時折そのワードが脈絡もなく脳裏によぎることがあるのだが、今の私は妻にとってまさにソレ。そう割り切った方が多分幸せ。