un deux droit

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俗に言う「嫌われる勇気」というやつだね

妻はすぐ「コミュニケーション力がない」と詰る

僕はつい「話が長くて辛い」と逃げる

(mr.children 『NOT FOUND』のメロディーに乗せて)



最近、なんで結婚したんだっけと思うくらいコミュニケーションが噛み合わない。

妻がいろんなことをずけずけと言い過ぎて、私の心が摩耗している。私の応答が要領を得ないため、妻がフラストレーションをためてさらにネチネチといろんなことに言及する。の悪循環。

「もう放っておいてくれ」と言うも、「じゃなあんで一緒に暮らしてるのよ」と返ってくる。

妻からすれば「言うことが増えたのは嫌いになったからではなく、心を許した」から。つまり他人に対しては誰かれ構わず常に不満がある。不満がある人を遠ざけ、不満のない人と暮らすわけではない。関係の遠い人には言わず、近い人にだけ「信頼して」言うのだそうだ。このロジックがなかなか飲み込めなくて苦しんでいる。やっぱり私は波長が合って「言いたいこと」の少ない人と親密になるものだと思っていて、必然「何か言いたくなること」は少ないはずだと想定している。そのため、妻からひっきりなしにダメ出しされると「自分は欠点が多い」「妻と相性が悪い」と受け止めて傷ついてしまう。妻の世界観からするとダメ出しの多さが「愛情」「親密」の証なのに。

なぜ妻はこんなに口うるさいのか。その原因の一つが昨日判明した。妻はコミュニケーションの目的を「一つの目的を達成するためにかかる時間を可能な限り省略させること」に置いているのだ。そのため内容はできるだけ直截的で簡潔な方がよろしい。

私は「人間関係を円滑に、良好にするためのもの」だと捉えているので、何かお願いがあったり、お願いに応じられなかったりする時も、何かと枕詞をつけてしまう。「申し訳ないんだけど」「難しかったら構わないけど」など。妻はそのまどろっこしい前置きが嫌いで、「申し訳ない」なら「申すな」と叩き返してくる。ご機嫌を取りながらお願いもするなんて厚かましい。というわけだ。


妻は自分が何を考えているのかをいつでもはっきりと伝えてくる。それを受け止めた相手が変に思ったり、自分のことを嫌いになっても構わないと考えている。「私はこういう人間です。合わないなら去って。」と常に発信している。
仲良くなるために足並みを揃えるのではなく、足並みを揃えようとしなくても揃う人とだけつるむことを選ぶ。必然、人間関係は狭くなるが、「相手ごとに波長を合わせるのってだるくない?」と公言して憚らない。
はっきりと伝えて、目的のものを手に入れて、相手に嫌われる。これの繰り返し。「私は協力しません」「邪魔です」「それが嫌いです」どんな否定的なメッセージでも躊躇がない。「相手が自分の話をどう受け止めるかなんて想像したって無駄よ。配慮したとてどう受け止められたかなんて真実はどうせ解りゃしないんだから。だからそんなしょうもないことで気を揉んでいる暇があったら、さっさと言いたいことを言いなさい」と。

早速、妻の言いつけ通り、率直に物事を伝えるリハビリ開始。「できない」「やらない」「やりたくない」を連発してみる。妻は「その調子よ」と言いながら「できてもらわないと困る」「やってもらわねば困る」と全く引き下がらない。そうやって思いの丈をぶつけ合ってはじめて、お互いが妥協できる着地点が見つかるのだ、とのこと。まぁ確かに、これだけはっきり言うということは、これ以上他に含みもない、ということで疑心暗鬼にならずに済む。忖度は消滅する。ただ否定的な反応を覚悟し、実際にそういう反応があるということに耐えるメンタルが必要。

さらに実験で、会社の業務外でお願いされた面倒な相談事を同じ要領ではっきりと断ってみた。そうすると相手は妻のように妥協点を模索しようと食い下がることなく全面的に引き下がった。まぁこれが日本人の典型的な反応だわな。妻の周りに人がいないのも頷ける。