un deux droit

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「本質」と「現れ」を解きほぐす

kkawasee.hatenablog.com

この本を読んでから早速夫婦げんかが勃発したのだが、諍いを収束する上で早くも役に立った。
参考になったのは「本質」と「現れ」の議論のパート。

なにか妻と私で話がいつまでも噛み合わないなぁと思っていたら、「表出した行動や発言」と「その行動や発言をした人間の人間性」との紐付けがまるきりあべこべだ、ということを発見した。

例えば私が妻にこだわりがあると思うテーマについて、そのこだわりを「尊重」して「発言を控える」とする。この場合、私の「現れ」は「発言を控える」ことで、それによって「あなたを尊重している」という私の「本質」を受け取って欲しいと願っている。

しかし、妻にとって見れば「発言を控える」という「現れ」は、「依存」という「本質」とガッチリつながっちゃっている。そのため、妻は私の「発言を控える」という「現れ」を感知して、「あなたは自分に意見のない苦手領域についての決定を私に押し付けている」という「本質」を導いてしまうのである。

この「現れ」と「本質」の紐付けはとても強固で、他人が付け替えることは本当に難しい。特定の「現れ」をどういった人間の「本質」と紐付けたいかは個人の価値観なので、自分はこれとこれが紐付いているといくら主張しようと共感してもらえることはない。誰が正しいとか何が一般的かということを論じても仕方がない。なので私にできることは、私が受け取って欲しい「尊重」という「本質」について、妻がいったいなにの「現れ」と紐付けているのかを確認し、その「現れ」をバカみたいに表出するしか方法がないのだ。たとえそれがいかに自分の紐付けとは異なっていて、「自分にとっての〇〇は▲▲でなくて■■という意味なんだけどなぁ…」と気持ち悪さを感じたとしても、だ。

先の例の場合、妻は「私がたとえ妻の意見と正反対の意見でも構わず主張する」という行為を「私の関心のあるテーマについてものすごい熱量を示してくれる」=「尊重」と紐付けている。私は「反対意見でも構わず主張する」という行為を、「相手の主張の実現を妨害する行為である」=「軽視」と紐付けている。清々しいほど正反対だ。なので私からすると「相手を軽視する」という意味を持つ行為をすることでしか、私の得たい「尊重」という本質を受け取ってもらえないのだ。その気持ち悪さを耐えきれないなら、私が受け取って欲しいと思っている「尊重」という「本質」を諦めるしかない。

こういう悲しい例はハラスメント界隈では枚挙にいとまがない。中学生のスカートめくりが好きの裏返し、なんてのは可愛いもので、熱血指導、可愛がりのつもりの「愛のムチ」がパワハラで、親近感を示し、対等な立場を演出したいという配慮のつもりの「下の名前呼び」がセクハラみたいな悲劇が日夜繰り広げられている。前者は自分の本質が極悪非道のサディストだとは思っていないし、後者は品性下劣なハレンチマンだという自覚がない。けれども相手方からすればそれらの「現れ」が、被害者当人にとっては心外な「本質」と紐付いているので、不本意なレッテルを貼られるより他ないのだ。

自分が「本質」と「現れ」をどう紐付けているのか、そして、他者の紐付け方とはどう異なるのか。そういうことを冷静に観察する習慣と、自分が紐付けている「本質」と「現れ」に拘らず、必要に応じて切り離す訓練というのは他者と無用な諍いを避ける上で有益であろうと思う。ありがとうヘーゲル。読んでないけど。


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