un deux droit

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贈与も返礼もできるだけない方がいい

ランニング後のシャワー時に、長女が「汚れが気になる」と言っていた風呂の細部の掃除を始める。なるほどよくよく目を凝らせば黄ばみや赤カビなど視力の良い子どもなら不快に感じる箇所が散見される。歯ブラシでゴシゴシと擦りながら、「子ども達に普段片付けしろとか綺麗にしなさいとか言ってるけど、模範がこれでは『綺麗の基準』もあったものではないな」と反省した。

妻が私に、「言われたからやるのは子ども。そもそも言われる前に自分でも嫌だな、と思う感性を磨いて欲しい」ということを頻繁に言う。それを私は「妻の快適基準を身に染み込ませろ」という意味に捉えていたが、もしかしたらもっと高尚な意味かもしれない、と思い始めた。

緊密な関係においては、「相手のためにいろいろと世話を焼く」ということが親愛の感情を伝える信号だと思っていた。しかし妻は「恩着せがましい」とその受信を断る。「感謝の押し売り」「ありがとうの強奪」「返礼の圧迫」と言葉の限りを尽くしてその憎しみを表現する。「おたがいさま」に代表されるような、ほんのりと反対給付義務を匂わせる社会の風潮が窮屈で仕方がないのだ。なぜ無闇にそうやってしがらみあおうとするのか。あげるならあげっぱなし、もらうならもらいっぱなし。そのそれぞれに因果関係の循環は発生させないようにしないと本心でないのに本心のような行動になってしまったり、本心なのに本心でないような受け止められかたをしてしまうではないか。そういう「義理」のやりとりが日本を衰退させたのだ、なんてことを嘯く。

いくらなんでも言い過ぎだと思ってはいたが、実際に風呂掃除という「贈与」の立場になると、「自分が綺麗で気分が良い」という効果のためにやっている。自分が満足する時点までやり切れば、それだけで気持ちは満たされており、完結している。その結果を見て他者が感謝しようが、それともここが磨き足りないと不足を指摘してこようが、どちらでも構わない。「あらそう、自分はこれくらいで十分だけど。それ以上を求めるならどうぞご自分で」と言いのけても良い。実際にやると喧嘩になるので、そこで初めて「自分は過剰だと思うけどあなたの満足のために一肌脱いでやるよ」と贈与の関係が立ち上がる。それには「ありがとう」をもらっていいし、要求して良い。しかし最初の清掃でありがとうを貰おうとすると、「いやいや、感謝されることだけが目的で、感謝されないならやる必要を感じない(という汚れに対する価値観)ならやらなくて良いわい」という妻の言い分が成り立つ。基本的には夫婦互いに自分の快適のために家を使いやすくし、自発的にメンテナンスをする。その程度がお互いに同じ水準だと「気が合いますね」というだけの話なのだ。そんな日常の行為の一つ一つにいちいちやったぜアピールもお礼もいらない。そういったこざっぱりした関係が長続きする、というのはなるほど得心のいくものである。あれ、妻に洗脳されてる?俺。