un deux droit

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ディズニーなめてた

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妻が先日の金曜ロードショーを録画していたので家族で視聴。『リメンバー・ミー』。皮肉とも言うべきか、そもそもそんなタイトルの映画の存在すら、申し訳ないけれど知らなかった。2度の育休を取得した2015〜2018年で流行していたものごとの印象がまるでない。金ローになるくらいだからそれなりのヒットをしたのだろうなぁ、と思いながらぼんやりと眺める。すると、いつの間にか家族全員がのめり込み、クライマックスでは感極まり、長女は堪えきれず号泣していた。

人は死んだらどうなるのか。そんな答えようもない問いに、きっとこんな世界なんじゃない?と、この作品はポップな解を提示する。「死者の国」。それは生者の国と隣り合わせに存在しており、生者の時の記憶と人間関係を引き継いだまま「骸骨」となり、生者の時のように人生の延長戦を楽しむ。物語の鍵を握る、とあるロックスターは、存命の時に絶大な人気を誇り、死者の国でも変わらず人気者であり続けている。
死者の国での容貌は、生者の国で寿命を迎えた時の若さで骸骨になる。若くして死ねば若い見た目の骸骨。長生きして死ねば老人の骸骨となり、そのまま変化しない。死者の国での「死」は、生者の国にいる誰からもその存在を忘れ去られた時。つまり自分の存在を覚えている者が全て「生者の国」から葬り去ってしまった時、人は完全に、跡形もなく消え去る。この物語のミソは生存している誰かに「覚えられている」こと。自分の存在を知る最後の生き残りが、高齢でボケてしまった場合、たとえまだ生存していても「忘れ去られし者」と見做され消し去られるのだ。

この映画はメキシコの「死者の日」という祭がモチーフだ。日本でいうお盆みたいなものだろうか。年に一度だけ生者の国と死者の国に橋がかけられ、死者の国から先祖が帰ってくる。先祖が帰ってこれる条件は生者の国の「祭壇」に自分の写真が飾られていること。これが橋を渡る上での「パスポート」になる、という設定が面白い。死者は死者の国で楽しく暮らしながらも、生者の国の存在を心のどこかで気にかけていて、年に一度の里帰りを心待ちにしている。もちろん生者には死者の存在は見えてないし触れることもできないが、死者は自分の子孫の健在ぶりを確認して、また第二の余生を味わいに死者の国へと帰ってゆく。主人公の少年が自らの家族のルーツを明らかにしてゆく話の展開が見事なのだが、これは見てのお楽しみ。中南米の陽気な音楽と鮮やかな色彩もずっと楽しい。生と死の狭間を移ろう感じは千と千尋を思い起こすけれど、こっちのほうがずっとわかりやすい。

自分の幼少期にこの映画があったなら、もう少し墓参りとか真剣にやったかもしれないなぁと少し思う。もちろん会ったこともない曽祖父母の遺影が本家に飾ってあるのだが、自分の乏しい想像力だけでは自らのルーツとして親近感を持つことはできなかった。

3歳の次女は主人公のひいばあちゃん(存命)、ひいひいばあちゃん(骸骨)まで登場する家系図のスケールに混乱しきりだったが、なにか感じるところがあり、「よかったねー、よかったねー」とクライマックスを噛み締めていた。もう少し大きくなったら家族みんなで観たいものだ。

それにしてもディズニーすげーなぁと今更思う。ピクサーなのかな。どっちでもいいや。今までディズニーには何の縁もなかったけれど、子どもが女の子2人なのがきっかけで、アナ雪とかラプンツェルとか今更見てめちゃハマってしまってる。これを知らずに死んでたら人生損してたなぁって感じ。女の子の親になれてラッキーであります。