un deux droit

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不断の歩み寄り

今日も妻と朝から口論。もはや生理のせいではない。

今日は新たな発見。

彼女は、私に何か苦情を言う時、その苦情が支持を受けられそうかどうかという見積を一切しないのだそうだ。

だから言われた私としては「そんなこと言う?」「それ私が悪いの?」って思うような事柄でも構わず問題提起してくる。

私の頭の中では「人に苦情を言うときは、その苦情がある程度客観的に合理性があるような、例えば人類のおおよそ半数が賛同してもらえるような事柄だけを伝えるべきで、逆にそれ以下の事柄は、それを気にする私が少数者なのだから自分が甘受すべき」と思考している。

どこまでの苦情を言い、言わないかという線引きは人により匙加減があるだろう。しかし、これは多数派だろう、と思うことは頭ごなし気味に、これは少数派だろう、と思うことは申し訳なさげに、表現方法の硬軟を使い分けるもんじゃないだろうか。普通。

しかし妻はそれをしない。100人中99人が賛同しないような事柄であっても躊躇なく文句を言う。曰く、「家族として一緒にやっていく」ということは、「他者だと受け入れられないような人間の側面を共有する」、ということなのだそうだ。ここで大事なのはあくまで「共有」であって、「許容」ではない。

例えば私が自宅では裸族でいたいと密かに思っている人間だとする。でもそれは流石に受け入れられないだろうな、と思って口をつぐむのは家族として信頼をしていない行為になる。ここまでが「共有」の原則。

ここで、「共有」したからと言って「許容」されるわけではないということが肝。あなたが裸族でいたいということは理解した。でも一緒にいる時に裸族でいられると困る。このように「拒絶」のケースもある。

しかしその後は「交渉」のフェーズがやってくる。私が外出の時に裸族でいるのは構わないよ、とか、ソファに座るときはタオルひいてね、とか、部分的に許容される余地が全ての事柄にはある。

そういった落とし所を探って、いや、やっぱりその条件の裸族しか許されないなら一緒にいられない、ということなら別れればいいし、別れてまで自分の望む裸族のあり方を貫きたいほどでもないな、ということならば裸族を諦めて一緒にいることを選ぶ。原作は至ってシンプル。

というわけで、妻の要求がいかに常識外れであっても、それ自体を咎めることはできず、「それを受け入れてでも一緒にいたいかどうか」を選ぶことだけが私にできることなのだ。

妻は言う。「誰しも100人中99人に受け入れられないような性質をどこかしら保有している。その性質を隠し合うのではなく開示し合ってできるだけ許容しようと歩み寄り続けるその姿勢が、他者同士の婚姻生活で必須のことなのよ。もちろんそれを完全に許容できることはないかもしれない。でも許容したいという意欲さえあれば結果が伴わなくても一緒に居続けられる。相手のことを尊重しようとする意思さえあればやっていけるのよ。」と。何だか哲学的な話になってきた。家庭を維持していくために、これからも妻の無数の「イヤ」に全力で応えていく。それだけが私の存在理由。