un deux droit

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俺なりのドラゴン桜、あるいは金八先生

「この高校からA大に行けるわけないだろう」

高1の夏、初めての進路指導で、私の希望進学先の記入用紙を眺めながらその教員は鼻で笑った。

偏差値45からの地方国立大、というビリギャルと比べればなんとも微妙な挑戦は、教員の心無い嘲りによって口火が切られたのだった。




A大というのは、地元で1番のブランドを誇っている国立大である。地方あるあるの「東大、京大、A大」という扱いを受けており、幼少期よりその大学名を冠した学習塾のCMを見続けてきた私は、「大学といえばA大」というピュアな洗脳を受けていた。
逆に言うと他の大学についての情報があまりに入らない環境でもあった。両親含め親族は丸ごと高卒止まりだし、集落にも大卒者は1人だけ。その人は周囲から博士と呼ばれて揶揄されており、「漢字をよく知っている」くらいの有用性を発揮していた。そんなわけで「大学とは如何なる機関か」ということについて何ら知見を得ることもないまま、素朴な憧れだけを抱いていた。

そういう志向があったのならば、高校から進学校にいくというのが定石だが、辺鄙な土地柄がそれを阻んだ。A大合格者をコンスタントに輩出しているような進学校へは普通電車を30分、特急電車で1時間乗り継いでようやく着くようなアクセスの悪さで、数年に一度出るような「街一番の秀才」みたいな人はその進学校に通うため朝5時台の始発に毎日乗って、そのまま塾に通って、21時すぎに帰宅する、という生活を3年間強いられていた。街一番の秀才でもなく、朝の弱い私にその覚悟はなかったので、中学の担任に授かった「鶏口牛後」という四字熟語を胸に、地元の高校から進学を目指すことにしたのだった。

そうして入学した地元の高校は、20年前にはすでに絶滅危惧種と化していた「元気の良い」高校だった。私が入学する2年前、隣町の中学校で窓ガラスが全部割られるというbe-bopな事件があったのだが、私が入学した当時、3年生にその事件を起こした代の中学出身者がひしめいていた。入学式の際に「あ、この人たちがあの事件の犯人だわ」と一瞬で確信させるリーゼントや金髪の集団を見て、鶏は鶏でも闘鶏じゃん…今日から俺はちゃんと生きていけるだろうからと心細く思った。ちなみに入学式直後に同じクラスの男子生徒が1人「態度がデカい」という理由で目をつけられ、体育館裏でボコられていた。幸いにして私はなぜか早々に四天王の1人の「ダイゴ君」に可愛がられて平穏な日々を過ごすことに成功したのだがその辺の話は割愛するとして、ともかくそういう「名前を漢字で書ければ合格する」ような高校に身を置く羽目になった。

そんなわけだから、先述した進路教官の態度に憤慨するのはお門違いだった。事実、この高校からは少なくとも10年以上A大の合格者はいなかったし、そもそもA大を受験した人間すらいないという有様で、半分は短大か専門学校→フリーター、もう半分は最初からフリーター、みたいなワンダフルな進路実績が続いていた。四大に行ける生徒自体が年2、3人で、国立なんて数年に1人というレベル。そんな相場の高校からその地方で最も偏差値の高い大学を合格しようだなんて夢を見るな、そんな大学に行きたかったのなら高校選びから間違っている、そう頭ごなしに言われるのは仕方のないことだった。

しかし、私は天邪鬼だったので、絶対無理と言われると、じゃあやってやろうじゃねーか、とついつい反骨心を燃やしてしまう面倒な性分で、どうせ行くならA大、と気軽に書いた目標が本気のものになった。この教員の鼻をあかせたらさぞかし気分がいいだろう、というだけの理由で予備校も塾も受験仲間もいない無謀な挑戦が始まったのだ。



高1最初の模試は箸にも棒にも引っかからないE判定。大概の受験生が高2から受験勉強を始めるようだと小耳に挟んだ(とはいえ底辺校なので真偽の程は定かではない)ので、じゃあ自分は1年からやれば2倍の期間を費やしているのだから絶対に受かるじゃん。俺あったまいー、という頭の悪い計算のもとに早速1年の夏休み明けから「受験勉強」を始めた。最初は速読英単語を通学時間にやり始めた。周囲から奇異の目で見られていたが、根が鈍感なので気にせず取り組んだ。

ある日、私がすでに受験勉強を始めたらしいという噂を耳にしたのか、数学教師が声をかけてきた。その教師は母校で唯一、進学校で教鞭をとった経験があった。彼は「お前が本気なら手伝うよ」と言ってくれた。参考書のことを何も知らない私に、まずは黄チャート、やり通したら青チャート、青チャートをやり尽くしたら数学だけで言えば合格ラインに乗るとお墨付きをもらった。以降私はボロボロになるまでチャート式の問題集をやり続けることになる。



高2の夏、この時期の模試ではC判定やD判定をうろうろしていたが、この頃にはもうまともに勉強している人間はほとんどいなかったので、模試の校内偏差値が100を超えるという事態まで発生した。なにせ、高2の開始段階で、アルファベットすらまともに書かない人間が半分いることが判明するような学校だったのだ。むしろそんな状態で模試を受けていて偏差値狂わせてくれていたやつ誰だよ。



高3の春、「あんどう、滑り止めどうするよ」とスズキが声をかけてきた。学年順位では5番手くらいで、県外私立を考えているようだった。

「B大いこうぜ」

スズキは唐突に切り出してきた。

「B?」

世間知らずの私はその存在を理解していなかった。スズキは呆れた表情で受験界における関関同立とかMARCHとかいう大学の序列について教えてくれた。受験を機に東京や京都などに暮らすのも楽しそうだと思い、B大と、テニプリを彷彿とさせるC大も志望校に加えた。



この頃から前出の数学教師が「大学への数学」という冊子を渡してきた。ここに書かれている問題が鬼ムズい。青チャートとは一線を画す難しさに目を白黒させたが、教師が丁寧に解説してくれると、なるほどそんな解法があったかと膝を打つという体験を繰り返した。「先生、A大とか余裕ですね」と思わずこぼすと「数学だけならね」と返された。


高3の夏。ほとんどの同級生が大学受験自体をドロップアウトして短大や専門学校に切り替え、一層孤独な戦いが続いた。図書館に受験生の姿のない町。塾もなかったので、どのくらいの大学を目指す人がどの程度の学力を保有しているか、という目安がまるでなく、自分が何位集団を走っているのかもわからない。このやり方でいいのか、これくらいの勉強量で十分なのか、という解消不能な不安に突き動かされて、がむしゃらに参考書の問題を解き続けた。B大受験をけしかけてきたスズキも、「わりぃやっぱ志望校の狙い下げるわ」と早々に降参してきた。

この頃には冒頭の進路指導の教官はもう何も口を挟まなくなっていた。彼は生物の教師だったのだが、試しに解いた模試のテストの点差が私より低かった。私がA大に合格すれば偏差値的には教師の学歴を遥かに上回る。あぁ、自分が行けもしなかったところに行きたいと言われても指導のしようがないよな、高一の際のマウンティングは仕方のないことだったのだ、とわだかまりを解消する。半ば復讐は完了していたのだが、その頃にはもう勉強していないと体調が悪くなるというアスリートモードに突入しており、当時の記憶は朧げである。



そして迎えたセンター試験。数学と生物が凹んだものの、国語が180点、政治経済が満点と跳ねる。合計点756点/900点とまずまずの成績。A大の合格確率はB判定。いよいよ無謀な挑戦の成功が現実味を帯びてきた。

センター試験が終わったのも束の間、私大の受験が続々と始まり、スズキが受験をけしかけたB大の合格通知はA大受験前に届いた。スズキは引いていた。私はとりあえず浪人がなくなった気楽さから、もうここでもいいかなと思い始めていた。そんな気の緩みをめざとく察した件の数学教師が見咎めた。

「お前はその小さな成功で満足するべきでない。初志貫徹しろ。全力を出し切らなければお前は必ずこの先後悔する。」

そう諫められて、京都に向いていた浮気心を正した。


A大の二次試験は豪雪により2時間遅れで始まった。数学の問題があまりに簡単で目を疑った。これセンターより楽勝では…何度見直しても引っ掛けはない。強いて言うなら最終問題でつまづくポイントがあり、そこを落とすかどうかの勝負だなと理解した。100点or75点。点数の均衡する二次試験で25点の差はデカすぎる。20分足らずで大問4問を片づけ、数学の満点と合格を確信した。四方へのプレッシャーかけも忘れないようにと、やや大袈裟に音を立ててふぅっと息を抜き、私はペンを置いた。永く続いた受験勉強もようやく終わるのだなという感慨に浸った。



A大の合格を告げる父からの電話連絡は、京都でB大の寮を見学していたときに届いた。「A大合格したらしいんだけど、京都暮らしもいいなぁと思ってるんだよね」と、一緒に寮を見学していた合格者たちにこぼすと満場一致でA大に行けバカと言われた。そんなに違うの?偏差値順に並んだポスターでは同格に並んでるけど、と言うと、憐れむ目で見つめ返され、悪いことは言わないから、と地元へ帰るように促された。未だにその真意はわからない。わからないが、学費や仕送りの負担も減るし、初志貫徹ということでA大への進学を決めた。


最終的に私はA、B、C大3枚の合格証書を手にしていた。「A大なんか行けるか」と言っていた進路指導教官は、保護者向けの会報誌やホームページ上で「A大、B大、C大の合格者を輩出しました」と、3人も前例のない進学実績を出したかのような表記でちゃっかりと自身の手柄にしていた。(余談だが、浪人含めではあるものの、私の卒業後5年ほど、母校からA大への合格者が続いた。プラセボ効果は偉大だ。)卒業式終了後、私は正面玄関の端っこに佇んでいる進路指導教官に声をかけた。「この高校からでもA大行けましたよ」とだけ告げ、「お、おぅ」と気まずそうに引き攣った表情を確認して満足した後、実質的な指導教官だった数学教師に謝意を伝えた。数学教師は顔をくしゃくしゃにしながら、乱暴に私の髪を掻き乱した。「俺の言うことを聞いてよかっただろ」と彼は得意げな顔を見せていた。1ヶ月前の、B大合格で気の緩んだ私に対するハッパのことだ。全てが終わった今となって振り返ると、目標に向かって完走したという充実感があった。


「あそこで頑張り切らなかったやつは、進学しても仮面浪人とかしがちなんだよ。自分の実力はもっと上なんだと思ったりしてな。そうやって貴重な時間を無駄にするんだ」

本人は何の気なしに叩いた軽口のつもりだろうが、人生の本質を突いた言葉の重みがあるなと今でも時折思い返す。



今となっては受験勉強した内容はほとんど忘れてしまったし、実力以上の大学に行ってしまって授業にはついていけなかったし、別に学びたいことや研究したいことがあるわけでもなかったから路頭に迷ってしまった。同じように落ちこぼれだったように見えた同級生が次々と官僚や有名企業に就職を決めていく様を見て、進学校上がりの人間との地力の差を感じた。結局私は地力のとおりの中小企業に潜り込み、大学に行かなかった高校の同級生と大して変わらないかそれ以下の給与で生活するという有り様で、難関大に進学した利点は何一つ活かせていない。(ちなみにスズキは箱根駅伝常連校に進学したのち、バンド活動と三茶の牛丼屋バイトに明け暮れたのち、地元に帰って自動車整備業として独り立ちし、ランクルを乗り回して羽振りの良い生活をしている。)けれど、自分が頑張れる限界を見に行った経験というのは、「あのときこうすれば」という後悔を極力回避することに役立っており、とても貴重な財産になっている。

詰め込み教育は学問の本質とは程遠いのだとは思うけれど、そもそも生育環境が学問と縁のない環境だった自分にとっては良い人生経験になった、という意味では悪くなかった。けれど、自分の子ども達にはちゃんと「学問」を愉しめる下地を用意してあげたい。それがアカデミックな世界を社会科見学してきた私の今の役目かなと思っている。