un deux droit

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脆弱な貢献、上等!

「自分にとって必要のない命はぼくにとっては軽い」と、生活保護やホームレスの存在を軽んじた発言をyoutubeで配信したDaigoが炎上しているようだ。
まぁそりゃ炎上するよね、という見事なまでに擁護できない発言だけど、けしからんとぷりぷりして、伝播力のある人物が、公然と何かを発言する際は「命は平等」という優等生発言を心掛けるべし、というだけで本当に良いのだろうか、となんとなくその批判の着地点に釈然としないものを感じた。
そのもやもやはDaigoの苦しみ紛れの開き直りですっきりした。「じゃあ身銭切って救ってみろよ」と。

「Daigoの発言を真に受けて、実際の迫害行動を正当化してしまう」ような思慮の浅い人が一定数いるから、そういうことを言わないだけでも平等の実現に資する、というのは、まぁわかる。けれどもその「消極的な平等への貢献」だけで一人前の面構えをするのもまた厚かましいのではないかと思ってしまうのだ。

「命は平等だ」というお題目をお上品に述べられるが、実際に命の平等を実現するための具体的な行動は一切取らない人を「偽善者」と呼んでしまえばもう大半の人は偽善者になってしまう。というか「この基準以上の貢献をした人から偽善者ではありません」などという線引きができるものでもない。だから何も行動をとらなくとも「偽善者」と後ろめたく思うことをやめよう、と開き直ってしまっている人が多いのではないだろうか。少なくとも自分はそうだ。「お気の毒」とは思うけれど、積極的に関わって手を差し伸べたことは一度もない。露悪的に蔑視をせずとも、生活保護の人やホームレスを「意識の外」に置いたままになっている姿勢に「彼/彼女らの命を軽んじている」要素が微塵も含まれていないか、と自問してみれば、「一片の曇りもありません」と胸を張ることは自分には難しい。

私のように意思も薄弱で生活と精神の余裕のない人はどうするべきか。意志が強く生活と精神の余裕があって具体的な行動をとっている人に、思いついたときに手元に余裕のある分だけを寄付と捧げればいいと思う。動機が罪悪感からの解放でも何でも構わない。寄付なんてのは一回こっきりでまた日常に埋没したってかまわない。自分は高尚なことを考えようが下劣なことを考えようが大勢に影響を及ぼさない凡人だ。なら小さい脳みそをこねくり回して理屈を考えるのではなく、脊髄反射で有り金を出す習慣をつけた方がなんぼかマシだと思う。

というわけで乙武さんがtwitterで紹介してたとこに募金しました。
ホームレス状態を生み出さないニホンに 認定NPO法人Homedoor

Daigoのように露悪的に社会の矛盾を冷笑して、凡人に社会の闇を思い出す機会を時折与えてくれる人にはあえて感謝しよう。慌てて蓋をするのではなく堂々と問題を直視しよう。そして反対の動きをしている意欲ある人に金を払おう。それがDaigo的な人の負のパワーを最も減殺するはずだから。