un deux droit

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死の美学を安易に求める国民性

ALS患者の嘱託殺人について。

ネットニュースに連なるコメントを見ていると、やたらと被害者の肩を持つ内容が目立つ。「死ぬ権利」「生を終える権利」「安楽死」。実に様々な表現を駆使して死という選択肢があることを肯定的に捉えている人が多いことに驚く。そしてそのコメントのほとんどが(当然だけど)今まさに死に直面している当事者「ではない」人たちが、「もしも自分だったら」という想定で好き放題書いている。「私には死を選んだ人の気持ちが痛いほどわかる」とか気安く書いている。わかるかボケ。

別に、尊厳死に賛同する価値観の人がいてもいいけど、もう少し抑制的に意見を表明できないものか。五体満足の健常者がこぞって、そんなに堂々と、胸を張って、生き生きと「自死」を肯定するもんじゃない。
あくまでも自死の選択に対する意見表明は、非常に不本意で不愉快で残念で後ろめたく未練がましく、でも致し方なくおずおずとそういう選択を選ぶ人がいても仕方ないのかもしれない、くらいの弱い共感に留めた方がいい。

何の葛藤もなく自信をもって手放しに「死の選択肢」を肯定できる人というのは、当事者本人の意思の尊重という穏やかな一線を越えて、「まだ生きるべき人」と「もう死んでいい人」という選別を躊躇なく断定できる。死にたいと思う人は死ぬ「べき」という、まさにこの「べき」という強い断定に、発言者個人の「選別」を肯定する価値観が隠されていることを自覚したらどうか。

「死にたい気持ち」100%の人も「死なせてやりたい気持ち」100%の介護者も実数としてゼロではないかもしれないが、当事者の大半は「死にたい気もする」けれども「願わくばもう少し生きたい」と、相反する感情が同居しているはずだ。そんな感じで今まさに「死にたい」と「生きたい」の狭間で揺れ動き悩んでいる人は、一連のコメント群を見てどう感じているのだろう。

「やっぱり自分の死にたいという気持ちは共感してもらえるんだ」
と安堵するのだろうか。

それとも
「やっぱりこれくらいの症状になったらもう死んだ方がいいのかもしれない」
と逡巡するのだろうか。

そして後者の場合、
「私は社会から生きながらえてほしいと期待されていない」
という絶望へと容易に変わりはしないか。

本当に彼ら当事者のことを生身の存在として肌で感じた事のある人はどれほどいるのか?生きたい希望を持てるように手を差し伸べるという具体的な行動をどれだけしたのか?そのどちらもしていないうちに、当事者でない人たちが「死」の側に安易に引き寄せられる世論を作ってはいけない。