un deux droit

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子育てに関わる金銭的痛覚(の無さ)

「2000万の宝くじを買ったんだなおめでとう」

昔、子どもを授かったことを会社の先輩に報告した時にかけられた言葉だ。

子どもが成人までにかかる養育費のおおよその総額と、どういう子どもとして生育するかの帰結のランダム性を捉えての、皮肉を言われたのだ。先輩の感覚からすると、子どもという存在を、自分のために使えるはずの金を貪る金食い虫としか捉えられなかったようだ。私は特段腹立てることもなく、なるほどそういう認識の仕方もあるものなのだなぁと感心していた。

さて、子どもとの暮らしが始まって5年以上経った今、私が子どもにかかる費用についてどういう感覚になっているか。なんと、自分に使っているのと同じ効用を味わっている。やむなき経費というよりも、可能な限りジャンジャン使いたい対象になってしまっている。服や食料、知育玩具やただの玩具、絵本、レジャー、習い事と頼まれてもいないのについつい散財してしまう。その反面、自分のスーツや革靴、私服などは1ランク安くなり、交換頻度も減った。自分のための余暇や趣味もすっかりご無沙汰だ。節約しているのではなく、自分への投資に意味や喜びを感じなくなったのだ。

周囲、特に子どもを持たない人からすれば哀れな生活に見えるかもしれないし、上記の私の見解は強がりか負け惜しみかセルフ洗脳と思われるかもしれない。一昔前なら周囲からそのように見られることすら苦痛に感じていたと思うがもはやその感情すら湧かなくなった。

先輩が宝くじと揶揄した子どもとの生活が「当たり」だったのか「はずれ」だったのかは今のところわからない。けれども何が「当たり」で何が「はずれ」なのかの基準を決める価値観が丸ごと変わってしまう選択だったことは間違いない。というか、人生というものは、当たりからはずれまでの一元的なものさしで測れるものではないとすら今では感じている。そう感じることができるようになった精神的な成長は、間違いなく子どもの存在がもたらしたものだ。そう思うと子どもの誕生は宝くじというよりも、別次元の世界へと誘う片道切符の乗車券のようなものだと思う。自分でもちょっと何言ってるかわからない。ただ先輩には、どうぞ従来の価値観における成功や幸福を存分に追求してください、と薄ら笑いで白けたエールを送っておくことにする。あー幸せ。