un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

妻に味方は要らない

今日もくだらないことで口論から始まった。

妻が仕事の愚痴をぼやき、それに対して安易に同調したら「そういう話でない」と不機嫌になった。

妻はただ私に、痰壺としての役割だけを欲している。
痰壺が気の利いた切り返しなどしてほしくないのだ。

私は人間なので、話の聞き手に回ったとき、可能ならば相手の事情に寄り添い、感情を慰撫し、苦難を乗り越える「味方」であろうとしてしまう。
でも妻は「自立」した人間なので、加勢しようとする見方は不要で、何なら不快ですらある。自分で処理できるから。そんなに弱くないから、と突っぱねる。
さらには、私が「味方」に扮すると、成り行き相手方は「敵」になる。そういう善悪二元論にすぐ落とし込むのがどうも安直で容易で浅はかに映るのだそうだ。

「私も悪くないし、相手も悪くない。誰かがサボったとかズルしたとかちょろまかしたとか、そういう誰かをスケープゴートを設定してやり込めれば気が済むような次元の低い話はしていない。当事者全員が精いっぱい頑張っていて、ただ問題自体の解消が困難だ、という話なの」

彼女の世界には敵も味方もいない。私は基本的に当事者ではなく傍観者。だから徹底的に第三者的に感想を述べるにとどまる。逆に私の話にも妻は徹底的に立ち入らない。味方には決してならない。徹底して遠巻きに見つめ、感想を述べる。どちらかというと私に肩入れすることは皆無で、私事態を批判的に考察し、ツッコミや冷やかしを入れる。それは私に落ち度があるとか、私が嫌いだということを言っているのではなく、「私(妻)はあなた(夫)の問題の当事者ではない」ということを名乗り続けているのにすぎないのだ。

妻からすると、人間はすぐそうやって私みたいに敵味方を作ろうとするから、戦争がなくならないのだとか。そしてすぐ仲間を求めるのは「弱い」ってことよと吐き捨てる。


「自立」している人の世界って、なんだか殺伐として見える。この世界観を心から理解し、「味方」になってもらえないからこそ、気持ちが安らぐ日が私にも訪れる日が来るのだろうか。