先の兵庫県知事選挙の結果は大変興味深いものだった。パワハラやおねだり含めた数々の問題行動と、それを告発した人物の特定という「公益通報者保護法」の真正面からの突破。その後の百条委員会では「告発内容は事実無根・誹謗中傷の内容だから公益通報保護法に該当しない」の一点張り。告発内容の事実性や、告発者側に誹謗中傷をする動機や利益がなかったことが明らかになった後もその態度を頑なに変えない。そんな激ヤバなお方が再選されてしまった。
この選挙結果に対して、さすがに兵庫県民大丈夫かというご懸念の声が方々から上がっているが、それに対して「民意を無視するのか」という反論が多いのも大変興味深い。
「民意を無視するのか」しか言えないような方々の言うような「民意」は無視されていいのではないだろうか。個人的にはそう思う。
「サヨクは批判ばっかり」とかいう定型文も同様だ。批判されている内容の是非と正面から向き合わず、その行為そのものをクサす。楽でいいですよね。
そういう方々に対しては「『批判ばっかり』という批判ばっかりですね」とお答えしておけば、以下にご自身が空語を唱えているかご理解いただけるのではないだろうか。
もちろん彼らが支持なさっているかのお方も、例にたがわず百条委員会での追及を無視している。
疑惑を真実として認めなくても構わないが、疑惑が真実か否か認定する議論のプロセスそのものを軽視していることは間違いない。
たとえがかのお方が全くの被害者で、議会と県職員が総出で陰謀したということがまさかの事実である可能性は、0であるとは言わない。
しかし、そこの議論から逃げた時点で、公職につく資格はないと思う。
「おねだり」に関しても面白い反論があった。「業者側はそんな事実はないと主張しているぞ」という主張だ。
贈賄と収賄の双方に事実か聞いて、事実でないと言ってるのを信じるアホがどこにいるのだろうか。
実際の「おねだり」の音声もあるらしい。すると今後は「都合のいいところだけ切り抜きだ」という反論もまた聞こえてきそうだ。
批判側の証拠の信ぴょう性を必死こいて下げるのではなく、反対の事実、つまり「受け取らなかった」ほうの証言を持ってこいや、と思う。
そうやって事実と事実を突き合わせて、真っ向から議論するのが誠意ある対応で、その意図はなくても紛らわしい行為があったなら素直に頭を下げればよいのだ。
もちろん事実の議論は辛い。論理的でないとならないし、証拠集めも大変だ。だから議論そのものを回避して、議論相手の性質について攻撃することを選ぶのだろう。
これはほんと簡単だからね。誰でもできる。「これだから左翼は」「在日の言うことなど聞くな」「女ごときが」うんぬん。
でも、「その属性を持っている人の意見は丸ごと聞く価値がない」と断定するのって、とっても賢くないことだということは思わないのだろうか。
いや、わかっている。かのお方をそこまでしてまで再選させたい陣営の思惑はまさに「そこ」にある。つまりは「身分制」なのだ。議会制封建主義、と言い換えてもよい。
俺たちは選ばれた者なのだ。だから、ハラスメントをしても、私腹を肥やしても許されるべきだし、法律に拘束されることもあってはいけない。それらはすべて下々を統制するためにあるのだ。かのお方のやりざまは、まさに彼らが理想とする専制君主そのものだった。だから支持しているのだろう。
立花孝志氏「バカな人たちをどうやって上手く利用するか。犬とか猫と一緒なん。バカに(票を)入れてもらう方法を考えるのが、本当に賢い人かな」
— 但馬問屋 (@wanpakuten) 2024年11月18日
この人に感化されて投票した人おる?w
pic.twitter.com/xwLXpWBYQI
その策略に載せられて、まんまと投票されてしまった方には下記の本をささげたい。歴史は繰り返している。