un deux droit

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性悪説というより性弱説

勤め先で経理を担当していた執行役員が、横領していた。

被害額としては200万程度と割と軽微で、全額返金されたということもあり、刑事事件にはせずに依願退職という形を取るようだ。

社長は可愛がっていた側近に裏切られ、憔悴していた。
心底信頼し、会社の財布をまるごと預けていたようなもんで、不正しようと思えばいくらでもできる状態を放置していた。

この話を聞いた時、社長の人の取り扱い方も酷なもんだなと思った。


「信頼」一言でと言えば聞こえが良いが、要は丸投げだ。ろくなチェック機能もなく、頼むは担当者の良心のみである。

私の見立ての限り、その役員は邪悪な人間性を持ち合わせていなかった。被害金額を見る限りでもとても小心者だし、「魔が差した」程度のモノだろう。私の見立てでは人畜無害な好々爺に過ぎなかった。その程度の人間をダークサイドに押しやったのは、社長の過分な信託だった。

身分不相応な権利を与えられると、大抵の人間はその権利を持て余す。そしてその一部の人間が、私的に流用くらいの小賢しい発想を思いつく。その誘惑に勝てるほど己を律する事ができるためにはそれ相応の教養の蓄えが必要だ。教養の蓄えがないことについて、他人は他人を責めることができない。出来ることといえば、ただその小物が邪な心を抱かないで済むように、チェック機能を予め整備することだけだ。

監視する構造は人権を侵害する邪悪なものだと思っていたけれど、その歯止めがあるおかげで救われる凡人もまたいる。己の中に定見もなく、律するところを置けない者だ。そういう凡庸な者を統治する上では、監視体制というのは監視される当人を益することもある。つまり、自己管理で自分を律することのできないものが、自分の管理を他者にアウトソースして、己の不明が引き起こす不都合を構造的に排除して仕舞おうという試みだ。

その構造を予め設置しておくのは、性悪説からではない。むしろ性弱説と呼べる代物だと思う。人はあらかじめ善でも悪でもない。揺るがない定見というものはなく、人はただその置かれた環境によって、善の性質を出したり悪の性質を出したりする。肝要なのは、いたずらに人の悪の部分を引き出すような構造を野放しにしないことなのだ。 

最低限度の制約は人を救うこともある、ということを学んだ一日。あくまで人の弱さを助長しない事を目的とした、最低限度ね。