un deux droit

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子どもの成長は社会が担っている

先日の日曜の話だけど、ショッピングセンターに併設された屋外の公園で、共用の水飲み場のところで4〜5歳の女児を全裸にさせて身体を洗っている家族がいた。

前日の大雨のせいで大きな水たまりができていて、子どもたちがこぞって泥んこになっているという非日常の風景ではあったものの、スッポンポンの女の子はそのどさくさに紛れ切れていない異様な存在感を放っていた。
何かタオルで覆うでもなく、そそくさと着替えさせるでもなく、あまりにも堂々と、悠然とした佇まいで女児の身体の隅々まで丁寧に泥を落とし、10分以上も1つしかない蛇口を一家族で占有していた。

ありえないと眉を顰める反面、これが当たり前の光景だった時代も確かにあったなと思う。社会の常識がいつの間にか洗練されてきたのだ。誰かが公然とやめましょうと言ったわけではない。でも各々が周りをキョロキョロ見ながら整然と足並みを揃えていくなかで、時間の経過と共に少しずつ、当事者の常識を塗り替えようという作為のないまま、常識の重心がスライドしていく。そうやって私より30年分常識が洗練された社会で娘たちは日々を過ごしている。頭を叩いたり鼻をほじったり立ちションベンしたりする人を見かけることはずいぶん少なくなったはずだ。する人に出くわさなければ自分もしようという着想を得ることは難しい。そうやって子どもの取りうる行動範囲が穏当になっていくのは喜ばしい兆候なのだと思っている。親がつべこべ言わずとも娘が自分の目で社会をよく観察し、勝手に学び育っていくものなんだと思う。
冒頭の夫婦のことを思い返すと、自分にだってその危険性はあると思えてきた。今、当たり前にしている行為が20年後の非常識になっていることも多々あるはずだ。そういえば昔自分の父がコンビニで購入前のコーラを開けて飲み出し、後からレジに通すという所業をやってのけたことを思い出す。どうせ買うんだから後から飲んでも先に飲んでも同じだろ、と。それに準ずる行為で知らぬ間に娘から白眼視されてしまうような事態だけは避けなければならない。いつでも自分が常識側にいると思い上がらないよう気をつけていきたい。