un deux droit

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「子持ち様」と「子持ち様を批判する人々」の相互依存

同僚の後輩女性が、いわゆる「子持ち様」に対する非難の声に憤っている、という愚痴を私にこぼしてきた。
彼女は2歳の男の子を育てている真っ最中で、育休から復帰して1年が経つ。自分なりに懸命に仕事と家庭を両立して頑張っているのに、世間はこのような冷たい目線で私達のことを見ているのか、と哀しくなるのだそうだ。

子育てしながら働く人々にSNSで心無い言葉を吐き捨てているような輩は、子育てする人間が絶滅したとてそれで幸福になるわけではない。また別のターゲットを見つけて難癖をつける一生を送るのだ。彼らは自分で自分を幸せにするすべが見つからないんだ。だからとにかく目についたやつの足を片っ端から引きずり落とす快楽に興ずることで、うだつの上がらない自分自身を直視することから逃避しているだけだ。だから彼らの屁理屈に耳を傾けて傷つく必要は無い。そんなの彼らの思う壺だ。無視無視。そんな事を後輩女性に伝えたら、そんなもんですかねぇ、とあまり納得の言っていない様子だった。あれ、結構核心をついたつもりだったんだけどな。肩透かしを食らった私は雑談を終えて、彼女が欲していた答えについて思いを馳せた。

冷静に考えてみると、そもそもなぜ彼女は忙しい合間を縫ってわざわざそんな非建設的なSNSを頻繁に覗き込みに行くのだろうか。そのことが気になり始めた。どうせ書いてあることはいつも一緒で、なんの足しにもならず、自分とは無関係な人間のつぶやきに過ぎない。そんな赤の他人のつまらない言動などをわざわざ摂取する意義などどこにもないのに、彼女は自分の属性に向けた暴言の摂取をやめない。とすればこれは、むしろ彼女のほうが「子持ち様批判」に依存している案件だということになる。なぜ自分の属性に対する批判をわざわざ自分から掻き集めにいくのだろうか。

ここから先は憶測と偏見が多分に混じるのだが、もしかしたら彼女は「批判にさらされる被害者」とあうポジションに執着しているのかもしれない。無論、子持ち様批判は不当で的外れだ。しかし、純度100%の言いがかりだからこそ、言われている側は100%自己正当化できるのだ。絶対に間違っている内容の批判を受けている私は完全に正しい、という理屈。世の中に完全に正しいなんてことはなかなかないから、これは儲けもんだぞと後生大事に的外れな批判者を飼育しているのかもしれない。

さらに言えば彼女は、「的はずれな悪意の被害者」以外のアイデンティティを確立していないのかもしれない。周囲が私を白眼視していて、積極的に関与してくれない、という世界観に経つ限り、自分が成果を出せなかったときは周りのせいにできる。社会が公正でない、という前提を堅持すれば、あら不思議、自分のパフォーマンスに不良があった場合でもすべて周囲のせいにできてしまう。逆に、完全に公正な社会が実現してしまったら、それは裏ルートのない完全な実力主義になる。そうなると、パフォーマンスの不出来の責任を他者や環境に押し付けることができなくなる。その可能性が怖くて、公正な社会の到来をできるだけ先延ばしにしようと潜在的に思っているのかもしれない。だとすればこんなに哀しいことはない。被害者への同情を糧にするやり方でしか、自分の価値を確認できないなんて。

一見、被害者にしか見えない人物が、被害者という肩書にもっとも執着していたという救いようのない話。誰になんと言われようとも、自分の価値を自分の言葉で表現
し、自分の意志で身の振り方を決められる人を、一人でも多く増やすことに微力ながら取り組んでいきたいと思う

日常に連れ戻されて

出張から帰り、家族とのいつもの日常に強制リセットされた。この土日はひな祭りという家族イベントにみっちり費やされる。ケーキやちらし寿司を子ども達と作る。

昔の交際相手に会ったことで、もともとあった心の空洞を改めて直視することになり、目の前の家族ごっこが白々しく思えてしまう。親としてかけられる期待に応え、言われた作業を淡々とこなすだけ。自分の心からの気持ちで体験を楽しみたいという気持ちは湧いてこない。

子どもはそういうの気づくのかな。私自身が子どもの頃、親から愛情を払われてるかどうかに関心がなかった、そこに疑問に思ったことがなかったので、表面的に違和感なく振る舞ってればそのまま親子でいられるかもしれない。

この前会った昔の交際相手は、母親がかなり教育熱心で、幼少期は習い事漬けだったらしい。常に一番を目指すことを要求され、泣きながら、歯を食いしばって、地獄の幼少期を耐え抜いた。おかげで頭脳明晰、スポーツ万能、英語堪能となり、研究者として現在活躍をしているが、その幼少期のトラウマから常に緊張状態にあり、武装解除できない性格になったようだ。彼女が私と出会ったのは色々とスランプに陥っていたときで、私がそういうプレッシャーから無縁でなんの高い期待を周囲からも課されず、自分に課すこともなく、能天気に人生を送っている姿が眩しく見えたらしい。要するにただのアホ。でも彼女の人生にそんなアホはいなかった。それが傷ついた彼女のシェルターになった。そんな背伸びしなくても十分かっこいいよ。そんなことを当時よく言っていたと思う。それから彼女は初めて周りから期待されることでなく、自分がやりたいことを優先するようになった。やりたいことがやれたのは地獄の下積みがあったからで、最初から私のように能天気に生きていたら、やりたいことを実現するだけの能力は手に入らなかった。けどその後私と別の人生を歩んだ彼女はシェルター無しで世間の荒波に揉まれていて、メンタルの維持に苦慮している。人生はなかなか複雑にできている。

私は子ども達への心からの関与がたぶんできない。妻との関係の問題ではなく、そもそも関心が薄い。あれやこれやと世話をやいてやらない。宿題やらなければならないまま、忘れ物があれば忘れたまま。バックアップ機能を担わない。でもそれで今のところ、自分のことは自分でできる人間にはなってきた。ただ期待をかけなかったことで、見放題見ているYouTubeを制限しなかったことで伸びる可能性のあった能力が伸びなかったということもあるかもしれない。心身が健全に育ち、愛し愛されることに障害がなく、関心軸に能力を伸長させていける人生を子どもに提供するのは本当にバランスが難しい。

昔の交際相手は、持ち前の語学力と専門領域についての豊富な経験を携えて、海外移住を考えているらしい。我々の心は部分的に深くつながったが、実際に生活をともにする、ということを空想すると、露骨に私の能力が足りない。英語は大学受験以来使ってないし、外国の人とコミュニケーションを取ることに苦手意識を持っている。そして携えていける労働スキルがない。生活面ではただの足かせになる。これは付き合っていた時代からわかりきっていたことで、結局私には一緒に生きていく資格がなかったのだ。

子ども達にはどんな人を愛することになるかもわからないから、できるだけ色んなタイプの人と添い遂げられるように、様々な経験を積むことだけは提供したい。それは自分の後悔から真剣に思う。

いいとこなんかなくたっていい

この土日は娘たちとスイーツ作りまみれの2日間。昨日はアイスキャンディとクッキー、今日はチョコパイと大学いも。昼飯がお菓子でいいなんてマリー・アントワネットですか君たち。お菓子を手作りすると、普段食べている市販のお菓子は、尋常じゃない量の砂糖とバターを使っているという事実ということを思い知らされる。値段が高いのも、お菓子ばっかり食べてると身体に悪いのも、どちらも頷ける。そんな感想が先に来る自分が嫌だ。ちゃんと娘たちの成長や家族の温かみに涙しましたよハイハイ。

家族と過ごす休日がだんだん苦役になっている自覚がある。ただただ一人でダラダラする休日がほしい。子どもたちの都合で朝起こされて、朝ご飯を作り、猫のウンチの処理とエサの補充、子どもの喧嘩の仲裁、部屋の掃除、妻の会話相手、子どもの遊び相手、昼飯の準備、子どもの遊び相手、子どもの喧嘩の仲裁、夕飯の準備、風呂掃除、子どもの喧嘩の仲裁、風呂入れ、寝かしつけってもう労働以外の何物でもない。家事で過労死って聞いたことないから、睡眠さえ6時間ほど確保できていれば、週7勤務くらいじゃ人は死なない。単純な労働時間とは別のファクターが必要のようだ。

昼食後ソファに突っ伏していると、不意に長女が「私っていいところないけん」とボヤいた。おいおい、こんなに至れり尽くせりの生活をしていて自己肯定感低いってどういうこっちゃ。本当なら「いやあなたはこういう良いところがある」みたいなことで反駁してやるところかな、と思った。しかしもう私にはそんな心の余裕がなかった。そこで思わず「いいところなんて無くったっていい。いいとこあるやつなんか一人もいない。いいとこあるなあって見えるやつはだいたいなにか我慢してるんだ。いいところがなくともそのままで胸を張って生きなさい」と切り返した。

苦し紛れの思いつきにしては、なかなか面白い事を言った気がする。「良いところがある人は価値が高い」という価値観は、一見真っ当な気がするけれど、裏返すと「良いところの無い人は価値が低い」という意味になる。そうやって他社と比較して優劣をつけ、それに応じて自己認識や人に対する態度を変えるのは、長期的に見て健全な経験とならない。良いやつと思われてるかどうかで、他の人なら許されないことが許されたり、発言が余計に尊重されたりするような社会なんてくそくらえだ。「良いやつと思われてないかも」なんて萎縮して、人一人が人一人分の権利として真っ当な分の言動を控え始める輩が増えたから今の日本の停滞や、格差や、不正の横行が止まらないのだ。

とはいえ、自分が子どもにええかっこしいところを見せて無理してきたから、子どもがそういう価値観を形成してしまったのかもしれない。自分に対した価値はないと自認しながら、それでも自信満々に堂々と生きている背中を見せていきたいと思う。子どもといる時間は好きではないけれど、人生を気分良く過ごすためのマインドセットは授けていきたい。

自尊心に根拠はいらないぞ!

パンデミックを回避できたからパンデミックで遊ぶ

長女がインフルに罹患して5日目。これ以上の自宅待機は限界です。ネタ切れです。長女もかなり回復してきたのに自由に過ごせないからストレスが溜まっていて、口が悪かったり妹に意地悪だったりして、それがまた妻の導火線に着火して大惨事を繰り返している。人が怒鳴り声あげてる空間にいること自体が辛いのよ。娘よ、どうか大人しくしていておくれ、自分の欲求の発露を我慢して、病人らしくしおらしくしていてくれ。後で復元できる保証があるなら娘にロボトミー手術を施したい。頭は良いけど性格が悪い。将来苦労するぞ。

あまりにやることがないのでボードゲームの棚からパンデミックを取り出して、長女とやってみた。インフル罹患中の娘とパンデミックプレイ。悪い冗談だ。小2には理解が難しいかと思ったが、概要を説明すると要領よく理解し、長女なりの戦略を立てて、作戦を提示してくる。2回目のプレイでは長女のアイディアを採用しなかったがためにウイルスの拡散を招いてしまって「ほらいわんこっちゃない」と呆れられた。この調子ならアグリコラやドミニオンもいけるかもな。ますます性格悪くなりそうだけど、遊び相手が増えることは喜ばしい。

長女の自宅待機期間は明日まで。あと一日頑張るぞー。

長女インフルにより軟禁生活

今週は火曜日に長女が体調不良を訴えてからてんやわんや。ブログを触る暇もなかった。水曜に小児科行ってみたらインフルB型と診断。そこから一気に療養生活。子どもが発熱したら脊髄反射で在宅勤務を選ぶ身体になってしまって、本当にそこまでする必要があるのか、どっちみち在宅している妻に任せてもいい程度の負担では、と少し悩んだが、人手は多いに越したことはない、と結論付けて水曜から在宅勤務を続けている。長女は小2とあってある程度一人で放っておいても問題はないが、なにか異変を訴えたり、食事の世話をしたり、心細さや退屈に寄り添ったりと細々やることがある、と自分に言い聞かせている。

厄介なのはむしろ次女の方で、なんでお姉ちゃんだけお休みして私は保育園なの?と毎日ぐずる。あやすのに辟易し、勤務時間を圧迫するくらいまで遅延行為を働いてくることに憤りを感じる。

長女が食べられるもの、食べたいものを作ってやると、今度は次女が違うメニューを要望する。ついでに妻もまた別の希望を言う。君たち私が食堂の親父がなんかだと思ってるでしょ。

はぁ、早く脱獄したい。来週が待ち遠しい。

学習能力の埋めがたい個人差

長女の冬休みの宿題に付き合う。

娘は残念ながら私の学習意欲を引き継がなかったようで、そもそも自分から宿題を片付けようとしないし、やっつけでやるのでケアレスミスが多い。

漢字はそれぞれの部位の形の観察が不十分で、「前」も「黄」も草かんむりで書いていたりする。漢字同士の類似性に関心がなく、細分化して覚えるなどの工夫もせず、「顔」と「頭」と「親」が、どれがどれかわからない。「親」と「新」はどっちもシンだなぁ、「近」はキンだけどシンニョウだなぁ、とか答えのないことをあれこれと思索するのが楽しいというのに。

算数は足し算と引き算を間違えたり、問題文をよく読まないで頓珍漢な答えをしていることが多い。計算能力は問題ないが、発揮する前に躓いている。また、計算が楽になるように簡単なものに置き換えるなどの工夫をせず、めんどくさいと決めてかかっている。一つの答えを導くのにもいろんなやり方があるという事を試さないと、確かめ算ができない。筆算一本槍だとしんどいし間違えやすいケースもあるが、横着した計算方法を編み出せると、横着と正規ルートを見比べて確からしさを高めることができるし、横着ルートの欠陥に気づいてそれがまた他の法則の発見につながる、という面白さに共感してもらえない。

私も娘同様、アニメやマンガばっかり見ていたし、加えてテレビゲームもしていた。でも学校の勉強で躓くことはなかったし、勉強は苦でなく楽しいものだった。個人差って結構あるなあと他人事のように考え、本人の伸びやすい資質のところを頑張って見つけようと思う。

豊かさについて思いを馳せる、誕生日会のセルフプロデュース

人生初めての手作りホールケーキは、自分の誕生日ケーキに充当されることとなった。


娘たちがケーキを作りたいと言い出したのは11月のはじめ。そんなこと言われてもと思っていたが、スーパーのパンコーナーでケーキに使えるスポンジが市販されていることを確認し、おもむろにチャレンジすることとなった。「作るのは構わないけれどハンドミキサーが欲しいな、、、この前ホイップクリーム作るのめちゃしんどかったし、、、」とつぶやいたら妻が即購入し翌日には届いた。妻は自分の手は動かさないが、必要な備品の手配については何の躊躇もなく行う。ちょうど私の誕生日が近づいていたので、じゃあ今回作るケーキを誕生日ケーキにしようと提案した。最近猫を飼いだして何かと物入りなので、ケーキ屋でケーキを買うお金をケチりたかったのだ。そもそも私の誕生日パーティ自体やりたくないのだが、それは娘たちの教育上よくないとのことで却下された。こういう催しものは教育的意義でやるものらしい。なら私のために作ってくれてもいいのではないかという思いは心の中にしまっておいた。

前日に買っておいたフルーツのカットは娘たちの仕事にした。キウイの皮むきだけしてやり、好きな形に次女が切り刻む。イチゴは長女の仕事。トップに飾る形のいいイチゴの選定を楽しんでいた。みかんの皮をむくのは面倒なので私の仕事として手戻りしてきた。

お次はホイップクリーム。ボウルに生クリームを流し込み、砂糖を加える。もう一個のボウルに氷を敷き詰め、生クリームのボウルを上に重ねる。いよいよミキサー登場。私も娘も初挑戦。けたたましい音の割になかなかクリームはまとまらない。ミキサー音にビビった娘たちは早々にギブアップ。ミキサーを最大出力にして、ボウルを傾け、クリームとミキサーの接地面をできるだけ多くするように工夫したら見る見るうちにホイップになった。その代わり生クリームはキッチン中に飛び散った。油跳ね防止の囲いを設置しておけば良かった。

娘たちはできたホイップをスポンジに塗ったくり、フルーツを敷き詰め、もう一枚のスポンジを重ね、また生クリームを塗ったくる。それだけだとかなりグロテスクな見た目になったが、私がへらを使ってクリームの凸凹を均し、絞り器でホイップをトッピングしたらそれっぽい格好になった。イチゴを載せろうそくを挿すと手作りホールケーキの完成。想像よりもはるかに簡単にできてしまった。

いざ、実食。カットした断面はお店で売っているフルーツケーキと遜色ない。食べてみるとこれがまためちゃうまである。スポンジは既製品を使ったので既製品なりの味だったが、クリームはそこいらのケーキ屋さんとさほど変わらなかった。手作りなりの味を食べて、「やっぱ市販とは違うけど、これはこれで美味しいね」っていう感想を言うつもりだったのに、「これならもうお店で買う必要なくない?」っていう感想になってしまった。スポンジも自分で焼いたらもっとおいしくなるはず。それも大した材料も使わず。ケーキは素人には作れない、だからあれだけ高いのだ、という思い込みを完全に打ち砕くパーティーとなった。


完成品を市場で調達しようとするとお金がかかる。だからよりお金を稼がないと、豊かな暮らしができない。消費社会はそのようにできている。

でも原材料と工具をあつめて組み立てを自前でやれば、完成品に含まれている人件費と利益は丸々浮く。これも当たり前の話。後はお金を稼いで誰かの時間と交換するか、自分で時間と労力をかけるかのどちらかである。そして、やってみると意外と労力がかからず、クオリティも問題なく、何よりプロセスも楽しいことというのが、実はそこら中に転がっている。でもそれにみんな気づいて自前で調達しはじめたら消費社会が回らなくなる。だからその事実は巧妙に隠されている。でも、何でも市場から調達するということは、実は家の外部に家政婦や職人を雇っているのと同じで、かなり贅沢なことなのだ。市場から調達するという手段しか取らずに金がなくなるのは当たり前のことだ。知っていてあえて市場から調達するのと、そうでないのとでは雲泥の差がある。少なくともホールケーキに関しては、自作のコスパと市場調達のコスパに大きな開きがあると感じた。

もちろん得手不得手が対象物によってある。私の大学の後輩は市販のPCは高すぎるといって部品を調達してちゃんと動くPCを作っていたし、父の友人は山林を二束三文で買い、自分で木を伐採して土地を開墾し、伐採した木でログハウスを建築した。いずれも「〇〇円のものが△△円で手に入った」と嬉々としていた。本人たちにとってはそのプロセス自体が利益なのだろうから勝手にすればいいと思うけど、大半の人間にとっては「いやその労力がばかばかしいからお金で解決するわ」となるだろう。彼らとて、「じゃあ半導体から作るか?」「植樹から始めるか?」と原材料の製造にまでは至っていない(はず)。私もじゃあ「牛乳を入手するために酪農から始めるか」とか、「小麦の栽培でもはじめるか」という話にはならない。(それをどこまでも突き詰めるとじゃあ原子を創造するか、というレベルになってくる。ニホニウムを作った人たちはそこまで突き詰めていったのかもしれない。)ただ、一つ一つの消費行動について、「これは市場で調達するしか方法がないのか?」と考える癖をもつことはお金の節約になるし、思わぬ発見や幸福をもたらすこともある。バスに乗らずに歩いて行ったら道中で趣味のいいお店を発見したりとかね。そういう豊かさということを知る誕生日となった。


私は調子に乗って、外食の予定を手巻き寿司パーティにしたりして、土日の三食とおやつをすべて手作りにした。その副産物として永久に食器洗いをしている。

コミュ力って双方向性のものだよね

昨日は白水大池公園に出向く。すると、長女が通っているピアノ教室の友達とばったり遭遇。夕方まで一緒に遊ぶことに。

友達の親御さんとは今まで接点がなく、先週あった発表会で軽く挨拶した程度。ただ、示し合わせたわけでもなく短期間に二度も顔を合わせるのは珍しいことなので、せっかくと思って色々話し込んだ。

聞けば、同じ市の違う小学校に通ってるのかと思いきや、住んでる街は隣町で、そこからわざわざ福岡市内の私立小に通わせているとのこと。ダボッとしたパーカーとカーゴパンツの出で立ちからあまり洗練された雰囲気は感じなかったのだが、自営業の社長さんだった。気さくな雰囲気、話はウイットに富んでいて語彙も豊富、子どもへの関与の仕方も温かみがある。「私立小」「社長」というラベルで私の眼鏡の色が変わっているだけかもしれないが、ほぼ初対面とは思えない、気のおけない間柄となって楽しくおしゃべりができた。

先日の勤め先の専務から「社内のメンバーに関与が足りない」と指摘をされ、俺ってそんなにコミュ障に見えてるのかなと気にしていた。しかし何のことはない、相手に話し合うに足る話題の引き出しの多さや、コミュニケーションを取っていて快適な程度の語彙や表現力、こっちの話に対する理解力があればいくらでも話は続くのだ。勤め先の同僚に知的好奇心をくすぐる人間が乏しく、わざわざ時間を割いてまでコミュニケーションを取りたいと思わないだけだった。

そんなことを妻につぶやくと、「今日の親御さんはあなたに知的好奇心をくすぐられたから会話が弾んだのではなくて、単に利害関係が発生したから労力を割いてコミュニケーションの扉を開いてくれただけよ。もし理解関係が発生してなくて、道端でばったりであっただけだったらあんなに話が弾むわけないじゃない。互いのコミュ力の波長とか関係ないから。」と混ぜっ返された。利害関係の空間に入っても話せない人と話せる人がいるねって話だったのだが、妻の理解力では難しい話だったのかもしれない。とりあえず妻とは話せないことだけは改めてわかった。

PTA側から突きつけられたNo thanks

PTAの会議を無断ですっぽかしてしまった。

私は今年PTA内にある委員会の委員をやっているのだが、その委員の役割である地域自治会との会合が今日行われていたのだ。

その事実を知ったのは、帰宅後に娘が出した一通の封筒を見たときだった。

「ごめんもらったの渡し忘れてた。」
娘は悪びれもせずそう言った。

その封筒の中に、会合の開催リマインド文書が入っていたのだ。

文書の発行日は先週の金曜日。今日が火曜日なので、娘が仮に金曜日に律儀に渡していたとしても、到底予定の工面がつけられないタイミングだった。

文書には「事前にお知らせしていた会議ですが、前回から日をおいてしまったので念の為のリマインドです。直前になって申し訳ありません」との記載があった。

この文書にある前回というのは6月の第1回会議で、その際は口頭での連絡だった。確かにメモした記憶があるが、その場にいた全員が参加するわけではない会議体の日程も同時に口頭で告知され、その会議の名前がどれも聞き馴染みのないものだったので正確にメモすることができなかった。また近くなったらお知らせしますとも言っていたし、当日参加していた他の役員も「どれが自分の参加すべき会議がわからん」「とりあえず近くなったらまたお知らせがあるみたいだからその時わかればいいや」と皆呑気に構えていた。そうしたらその事前というのがまさかの2営業日前だった。こんなの仕事だったら大クレームだぞ。もはや参加してほしくないと考えているとしか思えない仕打ちである。

たしかに6月の会議の際に、正確に日程を確認しなかった落ち度は私にもある。けどせめて口頭でなく文書でくれよと思う。紙でなくてもメールでもいいからさ。期待されている情報収集力とスケジュール管理能力が鬼すぎる。

PTA活動は面倒なことも多いけれど、だからといってそこまで邪険にする人は案外少ないと思う。みんなそれぞれボランティアでやっているのだから、多少の役割は担おうという心と時間の余裕はあるはずだ。それと親御さん同士の知人関係を築く糸口にもなるという期待だって当然持つ。だけどあまりにも情報伝達や意思疎通がお粗末で、その善意や打算を容赦なく挫いてくる。それでも済むと思ってるのは基本的に暇と高をくくってるかつての専業主婦想定の運営スタイルが更新されていないのだろう。

PTA活動は否定しないけれど、改革をするほど熱意もないので、残念だができるだけ関わらないようにしようと思う。

女児、半日会わざれば刮目して見よ

夕方、次女を保育園に迎えに行ったら、今まで一緒に遊んでいるのを見たこともない、名前も知らない男女四人組で、楽しそうに砂場遊びをしていた。「〇〇くんと△△ちゃんと□□くんだよ」と、何を今更と呆れたような口ぶりで、次女はニューフェイスの紹介を片付ける。次女はちょっと前まで仲良しの女子グループと形成して、その数人としか遊んていなかった。それが先月辺りから馴染みの男の子ができて、そのことばかり遊ぶようなことになったことを嘆いたばかりだった。
un-deux-droit.hatenablog.com
なのに今ではその男の子とも関係がおざなりになり、また新たなメンツにちょっかいをかけている。その次女の社交性というか、移り気の早さについていけないでいる。

次女は食卓でも、得意と言っていたピーマンが苦手だと言い出したり、納豆はひき割りでないと食べないと言っていたのに急に飽きだしたり、レタスときゅうりのサラダを出すと不機嫌になっていたのに、急に「なぜ私の皿にはサラダがないのか」と憤慨して、ドレッシングをかけもりもり食べたりと、食の好みの移り変わりが激しい。うっかり買いだめすると、急にブームが去って在庫処分を私自身がする羽目になったりする。風呂でもつい最近までは「パパのシャワーは強すぎる、痛い」と泣き喚き、全力の半分くらいの柔らかい水圧しか受け付けなかったのに、今日急に「シャワーが弱すぎる」と言い出して、全開パワーの水圧を平然とした顔で受け止めている。

そんな奔放な次女の姿を見て触発されるのか、長女も「わたしもそれとおなじことがしたい」と追随するシーンをよく見かける。自分からは言い出せないけれど、人がやっているのを見るとしたくなるようだ。そんな光景を見ると、あまり自覚なく、長女には首尾一貫した態度を期待して、翻意を許していなかったかもしれないと反省する。本来は次女くらい人の考えや好みや価値観というものは容易に変わるのかもしれない。朝言っていたことは夕方には影も形もなくなっている。そういう前提で子どもと向き合っているほうが健全な距離感で親子関係を継続できそうな気がする。

かつて、男子、三日会わざれば云々とのたまった人は、女子の目まぐるしい変化を見落としていたのではあるまいか。女子目線であの格言を捉えると、「おま、これしきの変化や成長に3日もかかるの草」となる。

お前に娘はやらん

次女(5歳)が随分おませになってきた。

どうやら保育園で好きな男の子ができたらしい。

その男児の名は「スダマサキ」に聞こえる語感を有しており、名を聞くたび菅田将暉がリフレインするので、もうここでは菅田将暉と呼ぼう。娘はお迎えに行くと、「きょうは菅田将暉とこんなことして遊んだ」とはゃぎ、朝に送るときは「菅田将暉今日はもう来てるかな」とソワソワする。ちょっと前までお迎えに行っては「もっと早く迎えに来て」といい、送るときは「行きたくない」としぶっていたくせに、菅田将暉に惚れ込むようになってから、早く行こうよ、もう迎えきたの?と掌返しにあっている。そういう現金なところが微笑ましい。

幼少期の惚れた腫れたは後世になんの影響もないので受け流しているが、娘の男を見る目についてはやはり心配になる。これまでさんざんだめな男を見てきて、男の中には相当数のハズレくじが含まれていることを私は知っている。男なんてギャンブル狂、色狂、アル中、凶暴、変質者のどれかに決まっている(暴論)。その中からより有害性の弱い人間を慎重に選ばないと女性は必ず不幸になる。できれば生涯独身のほうが幸せなんじゃないかとすら思う。多かれ少なかれ女性は男性に利用されてしまう。男性のそういった負の側面による災厄を女性が肩代わりする(借金返済、暴力の矛先、性欲の捌け口etc...)という形によって。

さて問題の菅田将暉だが、外見は菅田将暉というよりさだまさしに近く、取り立てて醜悪でもないが知性やオーラを感じさせはしなかった。ちなみに菅田将暉の母親はドラクエのバーバラのような格好をした主張強めな出で立ちで気後れする。にかるでもなく気の利いたことを喋るでもなく、始終ニタニタしている。娘よ、どこが良かったのだ。

菅田将暉は、ウチの娘が好き好きというもんだからその熱がまわりの女性陣に伝染して、ちょっとしたモテ期が到来している。就学前の幼児期には、本人の資質や魅力とは関係なく、ちょっとした入力の誤差で突如としてランダムな個人にスポットライトが集中する。菅田将暉もまんざらでない様子で、突如として訪れたモテ期を堪能してやや調子に乗っている。その増長の発端がわが娘だと思うと、なんて残酷なことをしてくれたのだと思う。彼の人生最大のモテ期は保育園だぞ。南海の山ちゃんと同じじゃないか。彼の以降長く続くであろう暗黒期に思いを馳せて憐れに思う。しかし菅田将暉が私に向かって「なんていっつも父ちゃんばっかり送り迎えなの。母ちゃんいないの」と軽口を叩いたことは許さない。お前に父ちゃんと呼ばれる筋合いはない(違う)。そしてまだ離婚はしていない。でも送り迎えが9割方私なことはやはりシングルスメルを漂わせていることは間違いなく、その時間玄関にいた親御さん達のなんとなくの視線を感じる。ほーらもう変な空気になっちゃったじゃねーかデリカシーのないやつめ。早くモテ期終われ。

それにしても大人から見る美形の男女が必ずしも幼少期から脚光を浴びるわけではないことはとても興味深い。娘の一番の友達みおちゃんは、橋本環奈の再来ってくらい抜群のべっぴんさんで、将来ファンクラブができたりして原宿でスカウトされるような類の造形だが、今のところ男の影はまるでない。男児も内田篤人似の超絶爽やかで、礼儀もしっかりした子がいるのだが、保育園内ではまるで目立ってなく、しばしば一人で遊んでいる。娘よ、絶対こっちのほうが当たりだって、と心のなかで叫ぶのだが、娘に限らず女子は誰一人内田篤人に見向きもしていない。きっと、幼い頃からチヤホヤされすぎると人間として伸びない、っていうことが暗黙知化されていて、幼少期の女子は捨て駒のような男に群がるようプログラミングされているのかもしれない。残酷な本能。

どうせならばプロのものを

これまでプリキュアを避け続けてきたが、子どもたちが素人ユーチューバーの三文芝居を見始めたので投入を決めた。キャラ設定も芝居も筋書きもすべて何処かで見たやつの二次創作か三次創作かで、とてもじゃないけれど見るに絶えない。こんな奴らに広告収入が入るのに加担したくはない。それならば真っ当な教育を受け、真っ当な訓練を経て、真っ当な技術を得て、真っ当なセレクションを通過した、真っ当なプロフェッショナル達が手掛けた作品を鑑賞してもらったほうが遥かにマシだ。アイドルやプリンセスの筋書きのものをいくら見たとてなんの足しにもならないが、せめてクオリティの高いものを見てほしい、という親心だ。

それにしても、なぜ子どもはヒーロー・ヒロインものの魅力に抗えないのだろうか。私は幼少期、なんとかレンジャー系に一切ハマらなかったので気持ちがわからない。なにか特別な存在に促成栽培されるような変身願望はない。

自分が価値を感じないものに子供がハマることを尊重するのはとても難しいですね。

教養は連鎖する

今日は福岡市科学館へ。できて日が浅い科学館なだけあって設備もきれいだし、展示が現代的。目新しい技術、ツールを使っているし、遊び心も多い。プラネタリウムもオシャレだし、イベントも盛りだくさんで1日中楽しめた。

目を瞠るのは、利用している客層。先週室内のアミューズメント施設に行ったのだが、そっちにいた金髪ヤンキースウェットスマホイジイジみたいな人種は皆無だった。親も子もたいへん聡明そう。親は子と一緒になって楽しんでいるし、子は順番はちゃんと守り、無闇に叫んだりしない。こんな露骨に住んでる世界が違うのね。

駐車場料金はかなり割高だが、入館料はとても安いので、トータルでかかる費用は室内遊園地と全く変わらない。金銭的負担に差はないのに、遊びに出かける先で客層が別れる。これは大変興味深く、残酷な現実。

子どもへ授ける作文の書き方

妻は、私の一言一句、一挙手一投足が気に障るらしく、今日もただただ不愉快。子どもに対しても発作的に怒鳴るので、精神疾患かもしれない。

そんなことはさておいて、長女の夏休みの宿題である。

あらかたの宿題は終えてしまったようで、残りは任意提出のもの。絵画コンクールの作品は仕上がっていたので、残りは作文コンクールである。これも任意だし、長女は絵画と違って作文には苦手意識を持っていたので、無理にする必要もないと思っていた。しかし、夏休み突入後の担任との面談で、「クラスで二人は提出するノルマがあるのだが、そのうちの一人としてあんどうさんにぜひチャレンジしてもらいたい」と頼み込まれていた。クラス平均で言うと、長女の国語能力はかなり高いらしい。

作文のテーマは自由ということで、直近の願い事や、夏休みの思い出、読書感想文などのジャンルを提示して、長女に選ばせた。次に、いきなり作文用紙に書かせるのではなく、メモ用紙を4枚用意した。作文用紙2枚〜3枚が提出の条件とのことなので、1枚のメモ用紙につき、おおよそ原稿用紙の半分の分量を割り当てるイメージを持たせた。

メモ用紙には補助線を引いてやることにした。まずは上部に主題を一文で書くマス。その下にその内容を具体的に説明する箇条書きのラインを3本。ラインの先頭に①②③と書く。この用紙を4枚用意。1枚目はメインで言いたいこと。2枚目はその思いの理由や根拠、3枚目は1枚目を掘り下げる具体的なエピソード。4枚目は3枚分のまとめとして改めて言いたいこと。ぼんやりと起承転結と言うか、PREPを意識した構成。

メモ用紙の説明をして、長女の気持ちや考えを整理するために簡単なインタビューをした。その内容をメモ用紙に歯抜けになるように記載した。後はこの空欄の部分を自分なりに考えて補足して、メモ用紙が埋まったら作文用紙にGO、メモはあくまでメモなので全部の内容を作文に入れなくていいし、書きながら思いついたことがあればメモより大切なことだからそっちの話を書けと伝えて長女をリリースした。

皿洗いなどの家事をやっていると、長女が「作文できたよ」と駆け寄ってきた。製作約20分。思いのほか高速で仕上げてきた。メモ用紙はきっちり埋まっていて、そのうち使ったエピソードに丸が付いていた。長女としてはとても書きやすかったようで、作文に自信が持てたとのこと。苦手意識が克服できたなら何より。作文の良し悪しはよくわからないが、現段階では彼女の中で取り組み方の見通しがついて、抵抗感を払拭することが大切だと思う。そこから創造性が芽生えるかどうかは本人の資質次第。

私自身幼少期、読書感想文がすこぶる苦手で、丸一日半べそをかきながら仕上げた苦い思い出がある。その思い出に浸りながら、当時の自分が親に出してもらいたかった助け舟を、30年越しで出航させることができた。これこそ現実世界のブラッシュアップライフ。

妻が出ていった

妻の言い分は言い分として、妻側にも問題や行き過ぎたと反省すべき点は一つもないのか、全ての問題は100%私が悪いのか、人を指差す前に自分に対して指差すことは出来ないのか、と問い詰めたら「出ていけ」と発狂し、私のありったけの私物を玄関外に打ち捨てた。

妻は都合が悪くなると「出ていけ」の連呼と殴打と破壊しかしなくなる。このやりざまでいつも私が追い出されてきたわけだが、もういい加減譲りたくなくて、「自分に出ていく筋合いはないし、そんなに離れたいなら自分が出ていけば」と言った。すると、「お父さんが出て行けと言ったから出ていくね」と捨て台詞を吐いて妻が出ていった。


私が出ていけと連呼されている時、子どもたちは涙目を浮かべて心配そうにしていた。しかし妻が出ていった後は安心そうにしていた。お母さん帰ってこないのかな、とは言っていたが、私が追い出されそうになったときの絶望感は表情に浮かんでいなかった。

私はその様子を見て、これまでの生活で子どもが私を愛してくれていたことを強く感じ、心打たれた。目の前で妻の私に対するダメ出しをあれだけ散々聞いてきても、私のことを軽視しなかった。妻がどれだけ稼いできて、どれだけ家の管理が行き届いていて、どれだけ教育熱心でも、子どもとの心の結びつきはとても弱かった。その事実だけで、妻に散々否定されてきた自分という存在が肯定され、取り戻した気持ちになった。

これから妻が戻ってくるのかはわからない。しかし、たとえ妻がローンの半分の支払を拒否して家計が回らなくなって、子どもの習い事をやめたり、この家を追われることになっても、子ども達さえいれば他に何も要らない、どんな貧乏も厭わない、そんな覚悟ができた。どんな暮らしになっても子どもたちと一緒で、かつ妻がいなければそれだけで幸せだ。