un deux droit

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豊かさについて思いを馳せる、誕生日会のセルフプロデュース

人生初めての手作りホールケーキは、自分の誕生日ケーキに充当されることとなった。


娘たちがケーキを作りたいと言い出したのは11月のはじめ。そんなこと言われてもと思っていたが、スーパーのパンコーナーでケーキに使えるスポンジが市販されていることを確認し、おもむろにチャレンジすることとなった。「作るのは構わないけれどハンドミキサーが欲しいな、、、この前ホイップクリーム作るのめちゃしんどかったし、、、」とつぶやいたら妻が即購入し翌日には届いた。妻は自分の手は動かさないが、必要な備品の手配については何の躊躇もなく行う。ちょうど私の誕生日が近づいていたので、じゃあ今回作るケーキを誕生日ケーキにしようと提案した。最近猫を飼いだして何かと物入りなので、ケーキ屋でケーキを買うお金をケチりたかったのだ。そもそも私の誕生日パーティ自体やりたくないのだが、それは娘たちの教育上よくないとのことで却下された。こういう催しものは教育的意義でやるものらしい。なら私のために作ってくれてもいいのではないかという思いは心の中にしまっておいた。

前日に買っておいたフルーツのカットは娘たちの仕事にした。キウイの皮むきだけしてやり、好きな形に次女が切り刻む。イチゴは長女の仕事。トップに飾る形のいいイチゴの選定を楽しんでいた。みかんの皮をむくのは面倒なので私の仕事として手戻りしてきた。

お次はホイップクリーム。ボウルに生クリームを流し込み、砂糖を加える。もう一個のボウルに氷を敷き詰め、生クリームのボウルを上に重ねる。いよいよミキサー登場。私も娘も初挑戦。けたたましい音の割になかなかクリームはまとまらない。ミキサー音にビビった娘たちは早々にギブアップ。ミキサーを最大出力にして、ボウルを傾け、クリームとミキサーの接地面をできるだけ多くするように工夫したら見る見るうちにホイップになった。その代わり生クリームはキッチン中に飛び散った。油跳ね防止の囲いを設置しておけば良かった。

娘たちはできたホイップをスポンジに塗ったくり、フルーツを敷き詰め、もう一枚のスポンジを重ね、また生クリームを塗ったくる。それだけだとかなりグロテスクな見た目になったが、私がへらを使ってクリームの凸凹を均し、絞り器でホイップをトッピングしたらそれっぽい格好になった。イチゴを載せろうそくを挿すと手作りホールケーキの完成。想像よりもはるかに簡単にできてしまった。

いざ、実食。カットした断面はお店で売っているフルーツケーキと遜色ない。食べてみるとこれがまためちゃうまである。スポンジは既製品を使ったので既製品なりの味だったが、クリームはそこいらのケーキ屋さんとさほど変わらなかった。手作りなりの味を食べて、「やっぱ市販とは違うけど、これはこれで美味しいね」っていう感想を言うつもりだったのに、「これならもうお店で買う必要なくない?」っていう感想になってしまった。スポンジも自分で焼いたらもっとおいしくなるはず。それも大した材料も使わず。ケーキは素人には作れない、だからあれだけ高いのだ、という思い込みを完全に打ち砕くパーティーとなった。


完成品を市場で調達しようとするとお金がかかる。だからよりお金を稼がないと、豊かな暮らしができない。消費社会はそのようにできている。

でも原材料と工具をあつめて組み立てを自前でやれば、完成品に含まれている人件費と利益は丸々浮く。これも当たり前の話。後はお金を稼いで誰かの時間と交換するか、自分で時間と労力をかけるかのどちらかである。そして、やってみると意外と労力がかからず、クオリティも問題なく、何よりプロセスも楽しいことというのが、実はそこら中に転がっている。でもそれにみんな気づいて自前で調達しはじめたら消費社会が回らなくなる。だからその事実は巧妙に隠されている。でも、何でも市場から調達するということは、実は家の外部に家政婦や職人を雇っているのと同じで、かなり贅沢なことなのだ。市場から調達するという手段しか取らずに金がなくなるのは当たり前のことだ。知っていてあえて市場から調達するのと、そうでないのとでは雲泥の差がある。少なくともホールケーキに関しては、自作のコスパと市場調達のコスパに大きな開きがあると感じた。

もちろん得手不得手が対象物によってある。私の大学の後輩は市販のPCは高すぎるといって部品を調達してちゃんと動くPCを作っていたし、父の友人は山林を二束三文で買い、自分で木を伐採して土地を開墾し、伐採した木でログハウスを建築した。いずれも「〇〇円のものが△△円で手に入った」と嬉々としていた。本人たちにとってはそのプロセス自体が利益なのだろうから勝手にすればいいと思うけど、大半の人間にとっては「いやその労力がばかばかしいからお金で解決するわ」となるだろう。彼らとて、「じゃあ半導体から作るか?」「植樹から始めるか?」と原材料の製造にまでは至っていない(はず)。私もじゃあ「牛乳を入手するために酪農から始めるか」とか、「小麦の栽培でもはじめるか」という話にはならない。(それをどこまでも突き詰めるとじゃあ原子を創造するか、というレベルになってくる。ニホニウムを作った人たちはそこまで突き詰めていったのかもしれない。)ただ、一つ一つの消費行動について、「これは市場で調達するしか方法がないのか?」と考える癖をもつことはお金の節約になるし、思わぬ発見や幸福をもたらすこともある。バスに乗らずに歩いて行ったら道中で趣味のいいお店を発見したりとかね。そういう豊かさということを知る誕生日となった。


私は調子に乗って、外食の予定を手巻き寿司パーティにしたりして、土日の三食とおやつをすべて手作りにした。その副産物として永久に食器洗いをしている。