un deux droit

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「子持ち様」と「子持ち様を批判する人々」の相互依存

同僚の後輩女性が、いわゆる「子持ち様」に対する非難の声に憤っている、という愚痴を私にこぼしてきた。
彼女は2歳の男の子を育てている真っ最中で、育休から復帰して1年が経つ。自分なりに懸命に仕事と家庭を両立して頑張っているのに、世間はこのような冷たい目線で私達のことを見ているのか、と哀しくなるのだそうだ。

子育てしながら働く人々にSNSで心無い言葉を吐き捨てているような輩は、子育てする人間が絶滅したとてそれで幸福になるわけではない。また別のターゲットを見つけて難癖をつける一生を送るのだ。彼らは自分で自分を幸せにするすべが見つからないんだ。だからとにかく目についたやつの足を片っ端から引きずり落とす快楽に興ずることで、うだつの上がらない自分自身を直視することから逃避しているだけだ。だから彼らの屁理屈に耳を傾けて傷つく必要は無い。そんなの彼らの思う壺だ。無視無視。そんな事を後輩女性に伝えたら、そんなもんですかねぇ、とあまり納得の言っていない様子だった。あれ、結構核心をついたつもりだったんだけどな。肩透かしを食らった私は雑談を終えて、彼女が欲していた答えについて思いを馳せた。

冷静に考えてみると、そもそもなぜ彼女は忙しい合間を縫ってわざわざそんな非建設的なSNSを頻繁に覗き込みに行くのだろうか。そのことが気になり始めた。どうせ書いてあることはいつも一緒で、なんの足しにもならず、自分とは無関係な人間のつぶやきに過ぎない。そんな赤の他人のつまらない言動などをわざわざ摂取する意義などどこにもないのに、彼女は自分の属性に向けた暴言の摂取をやめない。とすればこれは、むしろ彼女のほうが「子持ち様批判」に依存している案件だということになる。なぜ自分の属性に対する批判をわざわざ自分から掻き集めにいくのだろうか。

ここから先は憶測と偏見が多分に混じるのだが、もしかしたら彼女は「批判にさらされる被害者」とあうポジションに執着しているのかもしれない。無論、子持ち様批判は不当で的外れだ。しかし、純度100%の言いがかりだからこそ、言われている側は100%自己正当化できるのだ。絶対に間違っている内容の批判を受けている私は完全に正しい、という理屈。世の中に完全に正しいなんてことはなかなかないから、これは儲けもんだぞと後生大事に的外れな批判者を飼育しているのかもしれない。

さらに言えば彼女は、「的はずれな悪意の被害者」以外のアイデンティティを確立していないのかもしれない。周囲が私を白眼視していて、積極的に関与してくれない、という世界観に経つ限り、自分が成果を出せなかったときは周りのせいにできる。社会が公正でない、という前提を堅持すれば、あら不思議、自分のパフォーマンスに不良があった場合でもすべて周囲のせいにできてしまう。逆に、完全に公正な社会が実現してしまったら、それは裏ルートのない完全な実力主義になる。そうなると、パフォーマンスの不出来の責任を他者や環境に押し付けることができなくなる。その可能性が怖くて、公正な社会の到来をできるだけ先延ばしにしようと潜在的に思っているのかもしれない。だとすればこんなに哀しいことはない。被害者への同情を糧にするやり方でしか、自分の価値を確認できないなんて。

一見、被害者にしか見えない人物が、被害者という肩書にもっとも執着していたという救いようのない話。誰になんと言われようとも、自分の価値を自分の言葉で表現
し、自分の意志で身の振り方を決められる人を、一人でも多く増やすことに微力ながら取り組んでいきたいと思う