un deux droit

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選択的夫婦別姓問題とシンクロする在宅勤務問題

今日は集中したい作業があったので出社したかった。なので、駅の改札を越えてホームまでは行った。電車は通常通り運行していたが、あまりの暴風に(これは片道切符かもしれない)と思い、乗る予定だった快速を見送った。ホームには50人ほどが待っていて、私以外はみな電車に乗り込んだ。私はひとりホームに残り、彼ら彼女らの行く末を見届けたあと、駅員に入場取り消しをお願いして駅を去った。その足で近所のスタバに転がり込み、そこで一日を過ごした。締め切りまで余裕のあった原稿を一本書き上げたのち、セブンで買ったキングダムの新刊を読みながら、時折来る顧客からの電話に応対して時間を潰した。天候不順による予定や仕事のキャンセルが相次ぎそれなりに忙しかったが、仕事と余暇を並走させながら概ね快適な一日を手にすることができた。これで出社していたらいつ電車が止まって帰れなくなるかと気がかりで仕事どころではなかったと思う。仕事も満足いくクオリティを保ち、自分の余暇を業務時間に確保し、無闇なストレスを抱え込まずに暮らすことができた。賢明な判断を下した自分を褒める。

就業時間後、組合の職場集会に参加する。職場集会と言ってもオンライン開催なので実態としての職場があるわけではない。今日の議題は在宅勤務に関わる制度変更について。在宅勤務が可能な日数を人事が設定し、その日数以上の在宅勤務を希望する社員の処遇を下げるというプランを経営側が考えているようだ。裏返すと、一定日数のオフィスへの出社が確認できない社員に対して懲罰的な処置を下すということ。経営側の言い分としては「在宅勤務のみで業務遂行をするだけでは仕事とは言えない。実際に顔を突き合わせてコミュニケーションを取ることでチームワークが発揮されるしイノベーションも起こる。それこそが仕事である」という苦しいロジックを組んでいた。お客さんとの商談や社内のミーティングの半数以上がオンラインで完結し、オンラインで完結することで営業担当や社内のチーム編成がそれぞれの居住地に縛られなくなり、様々なコラボレーションが生まれ、過去最高の業績が出ているという反駁の余地のない現実があるのだが、そんなことはお構いなしの様子。あれこれ屁理屈をこねているが、結局のところは「在宅はサボる、それが許せない」というただその一点にこだわっているだけなのだ。

サボりとはなにか。それは業務時間中に業務と関係ないことに時間を費やすことを指すのだが、果たしてそれがなぜ駄目なのか、自分にはだんだんよくわからなくなってきた。妻は就業時間中に思いっきり洗濯をしているのだが、かわりに深夜に日中確保できなかったぶんの時間を補填して業務を遂行している。日中は仕事しかせず定時であがってその後洗濯をして室内干しをするという一日と、妻のそれとではただ家事と業務の順番が入れ替わっているだけで構成は同じなのだが、妻のやり方だと太陽光を存分に浴びた服が手に入る。室内干しの生乾きの服とは大違いだ。どちらがQOLが高いかは明白である。仮に私のように業務時間中マンガを読んで、業務時間後に漫画読んでた分の時間を補填しないような不届き者であっても、オフィスで漫画を読んだりして周囲の士気を下げるようなことをせず、目標達成や業務遂行に支障が出てないのならば実質的な問題がないように思える。どうしてもサボらせたくないならサボっていては達成できそうもない目標に設定すれば良いだけの話で、それをせずに働き方に口出しするのはナンセンスだと思う。サボりを罰して処遇を切り下げるのではなく目標未達成を理由として処遇を切り下げるのだ。これならば至極真っ当な話となる。
もちろん目標を上げるだけで相応の成果報酬と賃金の引き上げを約束しなければ社員は退職していくだけだ。出すものを出さずにただ働けとせっつくのは虫が良すぎる。

と、ここまで書いて、経営陣が目の敵にする在宅勤務の問題は、選択的夫婦別姓の問題と構造がよく似ていると感じた。

誰も全員別姓にしろとは言ってない。同姓を希望するならお好きにどうぞ。けれど私が別姓を選ぶ権利を妨害しないで。
誰も全員在宅勤務しろとは言ってない。オフィス勤務を希望するならお好きにどうぞ。けれど私が在宅勤務を選ぶ権利を妨害しないで。
ほら似てる。

選択的夫婦別姓に頑なに反対する人が「家族観が崩壊する」と言うように、フル在宅勤務を頑なに反対する経営陣は「会社観が崩壊する」と思っているんだろう。本当にそれが良いものだったら躍起にならなくてもみんな選ぶよ。みんな選ばないということは嫌なものなんだよ。あなたが本当に良いと思っているならば、他の人がそれを選ばなくても(もったいないわね)と憐れむくらいが関の山だ。なのに、自分が過去に通った道を通らない人が許せないと思うのは、その苦労を味わわない人間をずるいと思うからであって、そう思うということは自分自身もそれを良いと思っていないのだ。悔しいのはわかるけど、この辛さを味わうのは私の代で終わりにしよう、と思うのが先人の務めと思いますよ。