un deux droit

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民主主義システムの自縄自縛

https://news.yahoo.co.jp/articles/dd625f2f94b449364fc9392766bfc9e74cef0b40news.yahoo.co.jp

野田元首相が国会で安倍元首相の弔辞を読んだというニュースを見て、(私の心の内に)物議を醸している。

先日の国葬といい、「安倍さんという人を国家はどう弔うべきか」ということについて、(誰に頼まれたわけでもないのに)頭を悩ませている。

まず大前提を考える。

安倍さんの亡くなり方は民主主義に対する冒とくである。
民主主義は物理的暴力によって言論を封殺されることを断じて許さない。
その国の民主主義を司った人物が凶弾に倒れたのだから、「テロには屈しない」という徹底的な姿勢を改めて共有する意味において、国葬は当然のことであるし、国会で弔辞を述べられるのも当然である。

しかし、安倍さんという人物が、国会や行政を私物化し、まさにその民主主義を冒とくしていたという実態を鑑みると、心情的にはどうしても国葬という弔い方にはなじまないと思ってしまう。さらには彼の国家行政私物化へのプロセスを助長した自民党という組織が国葬を取り仕切り、まさに安倍さんが最も非難されるに値する「不透明な金銭の流れ」を国葬でまたやってのけてしまうあたりも、国家の運営主体として著しく不適格と言わざるを得ない。

まとめると、民主主義国家の原理原則においては議論の余地なく国葬を執り行うべき「事象」でありながら、ある意味最も国葬にふさわしくない「人物」が国葬を運営するに最もふさわしくない「運営主体」によって執り行われてしまった、ということである。心理的には絶対に認めたくなくとも、理屈に忠実になるならば認めざるを得ない。今回のケースは本当に難問だと思う。

結局のところ、国葬も弔辞も「民主主義国家存立を賭けて」粛々と行う一方で、国葬に値する人物を国政に送り込み、国葬を主催するにふさわしい政党を国民は育てていかなくてはならない、ということなんだと思う。民主主義の精神に蹂躙の限りを尽くした人物を、民主主義の精神に則り弔うのは誠に屈辱的なことではあるが、このシステムの間隙を突いたエピソードを胸にとどめ、いろんな意味で二度と同じ悲劇が繰り返されないようにしなければならない。

山口二郎さんは野田さんの行為に賛同するのは意外だったが、上記のような整理をしているんじゃないかなと推察する。



野田さんの弔辞そのものは本当に素晴らしい文章でした。