un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

自助・共助・公助

菅さんが首相就任時の所信表明演説で国家観のビジョンとして「自助・共助・公助」というものを掲げた。まずは自分でなんとかせぇ、ダメなら周りの助けを借りろ、それでもいよいよとなったら仕方ねぇから国が助けてやる、という政治家としてあまりにケチくさい信条に嫌悪感を覚えたものだ。

一方で、自分が子育ての局面で使っている論法はまるごと「自助・共助・公助」の順だったりする。まずは自分でやってみなさい、姉妹で助け合いなさい、仕方ないからお父さんがやってやろう、の順なのだ。
それは、何でもかんでも親を頼るとろくな大人にならないということへの懸念だったり、単純に自分が手が回らないのに次から次へとわがままを言うことへの憤慨だったりすることの表れなのだが、まぁ概ね家庭の運営というのはそんなもんなんじゃないかと思う。

菅さんが間違っていたなと思うのは、わざわざ一国の宰相がこれ見よがしに恫喝せずとも、市井の人々は「自助・共助・公助」の順で生きているということだ。デフォルトの優先順位がそもそもある上で、そこをわざわざ政府が上塗り強化してどうするのだ。デフォルトで取りこぼされるケースを救うのが公共の役割なのだから、「逆張り」するのが政治の王道だ。政党間で競うのは「逆張り」の傾斜の高低であって、「順張り」を企図するなんてナンセンスの一言に尽きる。
家庭の価値観をそのまま国家観にスライドさせる芸のなさに辟易する。

ついでに言うと、家族観自体も自分はこのままでいいと思っていない。そういう家庭観で育った子どもは人への適切な頼り方を身につけないまま大人になってしまう。それは私が身をもって証明している。頼るべきところで抱え込んでしまって気力・体力を削いでしまい、そのせいで「そこは自分でやり切れよ」というところで踏ん張りが効かないというチグハグなことをよくやってしまう。そして人が依存したり甘えてくることに対して著しく不寛容になってしまう。自分はこんなに我慢しているのになんだこいつは、とすぐカットなる。こういう哀れな人間を量産しない社会を形成するために、次の宰相には感情を逆撫でしない誠実な人物を望む。