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【書評】篠原信『そのとき、日本は何人養える?』

著者の篠原さんはツイッターでいつも面白いツリーを作っており、密かにフォローし日頃大変刺激を受けている。彼がツイッターで言及するテーマは多岐に亘るのでしばしば何やってる人なのかわからなくなるし、これまでに発刊された著書を見ると教育学者かなにかと勘違いしてしまうが、実は本業は農業博士。彼の主戦場を扱った初めての著書ということで、内容には興味がまったくないものの、全く興味のないものをとても面白く書いてくれる篠原さんの手腕に期待して食指を伸ばしてみた。(書店でなかなか売ってなかったのでAmazonでポチった。)

一読すると案の定というべきか、大満足の作品。これは農業の本のようでいて、その実、思考法の本だ。農業はあくまで素材に過ぎない。農業というものを篠原さんの思考力でとことん分析したらこういう仕組みになっています、という彼の思考プロセスを堪能することができる。

昔、「学習する組織」という本を読んで、その章立ての中で唯一強烈に印象に残っているのが「システム思考」の章だった。自分の視野の範囲で一見合理的と思える判断をしたとしても、様々な変数が絡んで望まぬ結果を招いてしまう、ということは世の常で、メカニズム全体を俯瞰すると短期的には一見非合理に見える選択が求めている結果を得る最短ルートだったりする、という話。理屈はわかるが直感に反する不協和音に絶えうる思考の体力が求められるので言うは易しだな、と当時は思っていた。それから約10年後、システム思考をやり抜いた「模範解答」として、この本を手にとることができた。僥倖というより他ない。さほど理系の知識がなくともだいたいそんなものかと想像で補える平易さも◯。この点、相当苦心されたと思う。

第3章で、どうしたら日本の国民や政治家に「農業が国民の生命を維持する根幹の産業である」という認識を持たせられるか、という問いが投げかけられていた。農業人口が減り、農家が国民一人ひとりの人生に身近な存在ではなくなるにつれ、農業が国の重点政策として扱われなくなった。しかし、米仏など同様に農家の割合が減少している国でも農家の所得補償などに税金を使うことに対して国民の理解を得られている国もある。その差は何で、どうやって埋めることができるのか、という難問である。篠原さんが答えを持っていないものに自分が答えを出せるとは思えないが、せっかくなので考えてみたいと思う。

一つには同語反復のような形になるが、システム思考を習慣化する教育が必要になると思う。まずはこの本を読むところから始めたら良い。日本人は景気が悪くなるとすぐ減税、みたいな、とにかく目先の痛みをどうにか逃れようとするものに飛びつく傾向がある。いやそこの循環止めたら巡り巡って自分の首を絞めるよ、というところまで考えない。そういう短絡的な言説に惑わされない思考の持久力を鍛える必要があるんだけど、長らく政権を担ってきた自民党が、考えさせない国民を周到に量産してきたのでとても困難な話だということはわかっている。

もう一つには、システム思考と逆行する話だけど、外部からのノイズに揺るがないアイデンティティが必要。米仏に共通するのは建国の物語。独立革命、フランス革命という語り継がれるターニングポイントがあり、自分たちの祖先が建国に携わったのだという誇りがあると、その精神を守ろう、という話にまとまりやすい。例えば出口治明さんがよく紹介しているのだが、フランスには「シラク三原則」という女性を徹底的に支援する少子化対策がある。この根底にはフランス語を母国語とする国民を絶やさない、という動機があるというエピソードを聞いてこれはもう敵わんわ、と思わされた。理屈じゃない。フランスを守るためなら何でもする、という気迫を感じた。そして、フランスという概念、あるいは精神を保つのは言語だ、と喝破したのもユニークだ。これだと移民の大量受け入れと矛盾しない。日本にはそのような、理屈抜きで守っていこうぜ、と共鳴できるものがない。明治維新も自分たちの手で起こしたという実感はないし、大東亜戦争もそう。戦後の復興もGHQ任せで、とにかく自分たちと違う身分の「お上」が自分たちと関係のないところでワーワー言ってる、というある種の諦念を根底に抱えている。

じゃあその諦念を少しでも払拭する手立ては何だと問われると、やはり格差の解消なのだと思う。経済的に困窮した状態を国家から放置され続けていると、単に生活が苦しいということ以上に、自分はこの国家の成員としてカウントされていない、という疎外感・孤独感を植え付ける。この国の運命と自分の運命を重ねられず、無関心になる。私を見殺しにした張本人の行く末なんか構うもんかとやけっぱちになる。モラルハザード。この点は篠原さん自身もツイッターなどで散々言及している。

じゃあどうやって格差解消をするのって話がまた難しいんだけど、一つ思うのは、格差解消の主役は国家でも企業でもないんだろうなということだけ。それは日本総中流、みたいな話で一度やって破綻したから。「お上」についていく形式ではどこかの段階で限界がくる。インフルエンサーについていくのも結局「お上」依存と同じ。個々人が草の根で自分を主役にする気概が大切。さてそこの「テコ」になるのは一体なんだろう、といったところで限界を迎えた。いつかこの「テコ」について自分なりの考えをまとめたい。本日はお休みなさい。