un deux droit

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他人は変えられる。それが望んだ形かはわからないけれど。

今日も妻は朝からご機嫌ななめ。雨が降って頭が痛いのだとか。

相槌を打っていると、「もう少し共感できないの?これだから発達(障害)は‥」と嘆き節。

気を取り直してあれこれ世話を焼いていると「腫れ物に触るみたいに扱わないで」と一蹴。

もうよくわからない、、と固まっていると、恒例の説教タイム。話がループして終わらなそうだったので、子どもの登校時間に遅れそう‥と言い訳してドロン。

その後帰宅して「体調不良者へのちょうどいい労り」についての講演(講演者:妻)」を2時間拝聴する。私の応対の何が不足で、何が過剰か。感情を込めずに共感を差し出すという難題を提示されながら、なんとか切り上げて午前のオンラインアポに滑り込む。平日は毎日が綱渡りの生活である。顕在化している仕事を拾うだけで精一杯。残りは妻の小言対応に消えている。

妻がことあるごとに「発達」と言うようになり、それが気休めになっているようなのでまあいいかと見過ごしてはいるものの、ずいぶん幼稚な振る舞いだなぁと思う。もし私が発達障害と診断されなかったら言いがかりだし、もし発達障害と診断されたらそれはそれで失礼なのではないだろうか。障害者に障害者と指弾して歩く人間を真っ当な成人として見做すのは難しい。第一、そんなことを言い募ったところでご自身が抱えている負担や不満は解消しないのだけれど。

彼女の言い分もわからないではない。彼女が「体調不良」を私に告げた時、おそらく私は苦虫を噛み潰したような、凍りついたような表情を浮かべて逡巡した筈だ。「えーっと、これはどのように対応すればいいんだっけ」と固まった。妻の体調不良からの口論を散々経験したせいで、妻の体調不良の告白がトラウマイベントになってしまっている。その一瞬を見咎めて、「私のことを考えないで自分のことばかり考えている」と指摘した彼女は間違いなく正しい。

妻があれもダメ、これもダメ、と言い捨ててきたせいで、自分が妻の体調を案じる時に自然な感情を発露させることが困難になってしまった。「自分の素直な気持ちを出してはいけない。それは必ず間違っている」と。自分の感情を信じられない。こういう気持ちになっているのは相手にとって迷惑かもしれない。そうやって何度も何度も思考にブレーキをかける癖づけを行なってきた「成果」として「反応しない人間」が完成した。それが彼女の望んだものだったはずなのに、今度は「自然に」気遣えるべきじゃないの、ときたもんだ。全くやっていられない。

私の思考回路はかなりの圧力で捻じ曲げられたのでもう二度と同じ形に戻らない。対妻の応答はSiriの如く定型文を繰り返すだけ。そこに抑揚や間合いを求められても無理だ。それを非人間的と言うのならその矯正を働いたあなたの方がよほど非人間的だ。

他の人には妻の言う「人として自然な応対」ができている自覚がある。「これが妻にできたら」と思うこともある。でも妻を目にすると途端に思考が固まる。これを発達障害と呼ぶのなら、妻は後天的に人為的に発達障害者を製造できたのだと思う。名発明家ですね。おめでとうございます。