un deux droit

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学べるものは全て家庭の中に

妻が生理中だ。

昨日は「勝手に決めないで私の意思を確認して」と「なんでも聞いて私に脳の負荷と決定責任を課さないで」という二律背反を両立する解を見つける難問に取り組んだ。私は妻の体調不良を案じて「〇〇でも作ろうか」と妻の好物を料理しようと思ったのだけど、「食べたいと言ったら食べ切らなきゃいけないプレッシャーがかかる。勝手に作って良かったらどうぞ、あなたが食べても食べなくても私が食べるつもりで作ったのだから、という優しさがない」と詰られた。勝手に作ったら作ったで「そんなに食材使って無駄にして。食費のことを考えていない。作る前に聞いてよ」と切り返す姿が容易に思い浮かぶ。この家庭は常に妻の後出しジャンケン。だから妻があいこにしてやろう、相手に勝ちを譲ろうという気持ちにならねば平和は訪れない。となれば答えは自ずと絞られる。「私が反町隆史だったら良い」だ。あなたも松嶋菜々子にならなければならないけれどその点は大丈夫だろうか。

昨日見たグリーンブックを思い返して現実味がないなと思う点が一つある。「旅先から妻を想う手紙を送り続ける夫と、献身的に待つ妻」の構図だ。モチーフが50年前だから仕方ないけれど、あれは作者(きっと男性だ)がパートナーに求める都合の良い願望に過ぎないと思う。あの映画を見て「女性かくあるべし」という思い違いを強化する男性がいたならば、現実世界での苦痛はより深まるだろう。女性が見て女性の理想像として自己暗示をかけるのも良くない。

結婚すること、家族を持つこと。それはまず間違いなく自らの自由を拘束するものだ。でも、何一つ自分の思い通りにならない、というのが本来の自然状態であって、そうやって悪戦苦闘する中で人は磨かれていくのだと自分に言い聞かせている。独り身で好きなだけ仕事をしてビジネススクールに散財して口を開けばAIだVRと単語の羅列しか吐けなくなっている意識高い系の人々をよくお見受けするが、そんなことにわざわざ時間と金を使わなくても結婚して子どもを持てばはるかに実践的な鍛錬と学習の場を家庭の中に持つことができる。さしずめMBAと千日回峰行と旧日本軍的しごきのハイブリッド。勝ち目のない交渉術、自分に非のないことに対する謝罪術、存在しない言語の解読、理不尽を耐え抜く精神力、急所を守る護身術…誰も座学で体得するのは不可能であろう。そして学びはえてして苦い。輝かしいものでもない。万能のツールもない。毎日が焼け野原からの哲学的思考のスタート。いやほんとおすすめですよまったく。