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猫も杓子も発達障害〜【書評】岡田尊司『発達障害グレーゾーン』

先日本屋を徘徊していて発見した本。私は真面目なので、妻に「お前は発達障害グレーゾーンだ」と言いがかりをつけられても、一応その可能性を客観的に判断しようとする理性はあるのだ。

この本を読むと、一口に「発達障害」と言っても、その意味するところは恐ろしいほど様々なバリエーションを含んでいると言うことがわかる。「お前アスペだろ」「自閉症か」「サイコパスめ」「ADHDっていうんだぜそう言うの」「まじあいつコミュ障」などなど、素人が聞き齧っただけの用語を無責任に使い回して悪口を言っている場面は散々目にしてきたが、そうやって人のことを蔑視していた人間が果たしてその特徴の違いを精緻に理解していただろうか、という気持ちになった。一読しただけでは何が何やらかえってわからなくなるくらいだ。

自分は何に該当するかなと思いながら読んでみたところ、私は回避性愛着スタイルが一番高いかなと感じた。そしてむしろ妻が自閉スペクトラム症(ASD)の気があるのではないかと感じた。

恐れ・回避型愛着スタイルとは、人間不信が強く、人に心を開いて情緒的関わりをもつと傷つけられてしまうのではという恐れのため、関わりを避けてしまうタイプで、本当は人との関わりを求め、愛されたいと願っているものの、本気で関わろうとしない。

人と打ち解けることは危険なことであり、いつのまにか、誰にも気を許さず、表面的につき合うようになっていたのだ。しかし妻は、結婚生活のなかで、夫と気もちが通じないことに対してストレスをため続け、それがとうとう限界を迎えてしまったのである。

うん、これこれ。なんか自覚あるわ。

対して妻。

「~なのはどうして?(どういう意味がある?)」「~が正しい(間違っている)」「~すべきよ」といったものごとの仕組みやルール、正しさなどについての語り(議論というべきか)は、システム的な関心から生まれる。  通常のおしゃべりは、共感的な語りがなじみやすい。システム的な関心が強い人は、ほかの人の口にするおしゃべりが退屈であり、自分が発言しても周囲はあまり乗ってこず、むしろ退いてしまうということもあって、居心地が悪く感じてしまう。  ASDの傾向をもつ女性の多くはグレーゾーンと判定されるが、共感的な話題を好む女性のなかでは浮いてしまいやすく、子どものときにはいじめや仲間外れにされたりすることもある。

もろ妻じゃん。子どもの時のエピソードもまんまこれ。男の子の輪の中で、紅一点遊んでいたようだ。


というわけで私と妻は互いを指差して、症状の異なる、けれども困難な態度は同等の、発達障害グレーゾーンを抱えている可能性がある、と推察された。

とりあえず私の対処療法としては「妻ほど合理的で打算的な思考しかできない人間が、『私を貶める』という無意味な行為をするわけがない」⇨「この刺々しい物言いに悪意はない」と考える癖をつけることくらいかな。

それにしても、書かれている症例を見ると、「それはただの性格でよくない?」というパターンがとても多いと感じた。これをグレーゾーンと呼ぶなら、勤務先の人間全員グレーゾーンだわ‥「性格に難あり」くらいのものが「障害」と取り扱われるようになってきていることに窮屈さを感じる。「性格」だって本人の意思でどうこう変えられるものではないわけで、そういう「癖」のない人間だけを「障害のない人」とみなすのもやりすぎな気がする。そんな人がいればきっと「無個性」とか「人間味がない」「AI」とか言われてまた悩むのだろう。脳科学が進歩しすぎて脳内ホルモンの影響だとかなんだとか因果関係が分かりすぎちゃってかえって残酷になってきたなぁという印象。

きっと、近年新たに障害が「発見」されたのではなく、社会で求められるコミュニケーションの水準がぐんぐん上昇してきて「気難し屋」「偏屈」「心配性」「横柄」「愚鈍」「上がり症」「引っ込み思案」当たりが丸ごと「障害グレーゾーン」にランクアップしてしまったんだと思ってる。犯罪率の低下なんかの指標を見ると、それだけ社会が洗練されてきたとも言える。ただ「外れ値」への不寛容度が高まっていく方向で社会が変容していくのは勘弁してほしいところ。違いを知り、許容しながら対処策を模索する余裕が各々に求められているように感じた。

そう考えると妻という困難を抱えた私は、ある意味無敵。妻と快適な人間関係を形成できるなら誰とでもある程度温厚な間柄でいられる気がするよ。