un deux droit

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川瀬和也「ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力」

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以前こんな記事を発見して、その論理展開の美しさに「賢い人がいるもんだなぁ」と感銘を受けた。
kkawasee.hatenablog.com

この人の書いた文章は今後も読みたいなと思って読者登録をしていた。(何気に九州人、同年代なのも気になるポイント。)そうしたら、何と次の記事が書籍刊行のお知らせ。これは面白い巡り合わせだと思ったので、内容には失礼ながら全く興味がなかったが(本当に失礼)、買ってしまった。というのも、本というものの価値は、そこに書かれている内容の有益性ではなく、著者が任意のテーマについてどう論じるのか、その思考回路を辿ることにあるからだ。ヘーゲルには微塵も興味がないが、興味のある人が興味のあるテーマについてどう論じるのかについては興味がある。まぁそういうことだ。

哲学。それはこの世界の説明。とくに、説明のしようのない根源的なものを何とか説明しようと悪戦苦闘する営み。「哲学」という言葉を聞くだけで近寄り難いものを感じる。おそらく「哲」という漢字が「哲学」か「哲人」くらいでしか使われず、「哲」そのものにどんな意味が含まれているのか手がかりが少なすぎるのがいけない。philosophyから「原理学」とかにしておいてくれれば、もう少しとっつきやすかったのに、と訳語を恨む。中身はわからないが、とりあえず携わっている人がかしこいのであろうということだけは伝わるという嫌味ったらしい響きがする。

さて、ヘーゲルである。弁証法。正反合。止揚。もはや知っているのはそれだけ。それらがどんな意味で、どんな目的で編み出されて、何の役に立つのか、何一つわからない、「止」と「揚」なんか隣に並べても何の意味も立ち上がらない。本当にこの人は説明する気あんのか、どうせ凡人を煙に巻いて小馬鹿にしとるんやろ、と反感を持つだけで終わる私のような大勢の人と、「いや、これには常人には容易に理解できない崇高な真理が秘められている」と知的ドライブのかかるごく一部の人に分かれる。川瀬さんは後者の立場から、知的情熱が乏しく辛抱足りない大多数の前者に向けて、なんとかヘーゲルの思考回路を楽しく味わえるように架橋しよう、というのがこの本の勇敢な試みだ。

川瀬さんがとても誠実だなぁと思うのは、とにかく読者が迷子にならないように丁寧に丁寧にその時点までに整理された議論を振り返っていたことだ。というのも、ヘーゲルに限らず、大概の哲学者の本というのは、書かれている内容だけ読んでも意味を捉えることは困難だ。その著者が生きた時代背景や、著者が論じている題材について先行する哲学者がどのようなことを論じていたのか、という文脈とセットで読み込んではじめてロジックが染み込んでくる。そのため、いちいち背景や文脈を押さえてから本筋に入らないと解説の体をなさない。けれども背景や文脈の説明自体にもそれなりに紙幅を要するため、本筋にたどり着くための仕込みの段階で、「今全体像のどこについて話してるんだっけ」と簡単に遭難するのだ。川瀬さんはそこの説明が細かい。今何合目ですよ、ここ段差気をつけてくださいね、今最短ルートで駆け登ってますけど本当はここに分岐ありますよ、と急峻なヘーゲル山脈をできるだけ安全に負担なく登頂できるようエスコートしてくれる。内容とは関係ないけれど、その几帳面さがよく現れていた。

読み終えて思うことは、今後自分一人でヘーゲル山脈登頂にトライすることはないなとますます確信を深めた一方で、思索を深める営みそのものの面白さは充分に刺激される本だということ。任意の領域に一つの理論を打ち立ててみる。その理論はその領域の中では矛盾なく成立するが、隣接する別の領域に類推しようとすると破綻する。自分の理論と矛盾が生じないように他の領域を説明しようとすると無理が生じるもどかしさ。自分の理論がその後の自分の思考の足枷になるという皮肉。まるで要素のうちの二つしかどうしても満たせない三元連立方程式を解いているような感覚。仕事でも家庭でもそういう局面よくあるなぁ。それは健全な状態なのだ。世の中は数学ではないので、実は解が存在しないという問題しかほぼない。永久に解けないとわかっている問題でも、最も矛盾の少ない暫定的な解答を目がけて絶え間なく漂流するのが人生なのだ。そんな絶望的な勇気を与えてくれる一冊。褒めてないなこれ。