un deux droit

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小市民としての満足と充実

今年初めてのランニングをしてきた。

去年は風邪引いた時以外は毎週1〜2回の10km走をやり切った。しかし、それで劇的にタイムがよくなるわけでも、スタイルが良くなるわけでもなかったし、11月くらいからは自分に課したルールを守る、やり切るということ自体が目的化して、楽しくなかった。時間もそこそこ取られるのに楽しくないのは不幸と思い、一旦活動休止。もっと短時間で負荷を感じられる筋トレに切り替えていた。

その気が変わったのは、なぜだか無性に汗をかきたくなったからで、身体のシグナルには素直に従うことにした。

久々のランはタイムも計らず、ペースも適当に、気楽に走ることにした。風が予想以上に冷たく、不愉快を覚えたので4kmほど走って切り上げ。運動に限らず、中年に差し掛かってからは何事においても満足感が頂点のタイミングで躊躇なく中止することを覚えた。満腹のタイミングであと一口二口を残す、ジュースも味に飽きたら捨てるなど。フードロスの観点からはいただけないものの、自分にとっての「ちょうど良さ」は提供者都合の分量とは自ずと異なるのだから仕方あるまい。昨日のランチで食べたラーメンは、半替玉をしてその半分を残した。

そのあとは一人カラオケに。モーニングパックで12時まで定額だが、歌いたい歌が尽きたので11時40分ごろに切り上げた。

最近は仕事でも参加する会議を選り好みしたり、会議中つまらなかったらスマホゲームをして暇を潰したり、お客さんと別のweb会議があるとか嘘の理由を並べて早抜けをしたりしている。就業時間の中身を、自分にとって最も充実感を味わえる組み合わせになるように腐心している。会社の目標は意識していない。自分の楽しいと思える仕事は自ずと会社を儲けさせることになるので、それでいい。会社の目標達成のために会社が設定したマイルストーンは必ず自分にとって不快な水準で設定されているので受け流す。これでは出世しないが、会社のマイルストーンに沿ったからといって出世が確約されるわけでもないので片務的だと思ってしまう。だから、やらない。


これもまた今の収入が自分の満足する生活を送る上で「ちょうど良い」からである。人によっては全然足りない年収500万の暮らしは、妻と共働きであることと、福岡という地方都市における生活費の安さとも相まって、自分にとっては十分余裕がある。お金をかけないと満足を味わえない趣味がない。せいぜいが読書くらいだが、図書館で順番待ちできるくらいの、そして図書館に入荷がなければ読まなくていいくらいの熱量しかない。収入と支出のバランスが取れているのでこれ以上労働に対して自分をアウトプットする必要がないのだ。

そんなわけで、なんの生産性も発展性もないが、人1人の生活としては満足しているし、充実している。家族がいる。家がある。定期収入がある。ただそれが幸福ではないことはわかっている。ただ幸福を追い求めるには満足と充実を手放さねばならないこともわかっていて、それの踏ん切りがつかない。