un deux droit

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「キャリア・オーナーシップ」は「プロジェクト・オーナーシップ」から

妻が会社を転職して1週間、早くも妻が悟ったのは、「会社は存在しない」ということだった。
名のある大手の社員証、都心のきらきらしたオフィスを一瞬だけかすったものの、翌日以降は自宅でオンライン会議の連続。Zoomの背景は会社公式のものをもらったが、それも所詮、顔はめパネルのようなものだ。何かのプロジェクトがあって、その遂行のためにどこかのおじさんとコミュニケーションをとって、自分にアサインされた作業をする。あれ?これ転職前の業務とそんなに変わらなくね。変わったのはいくばくかの賃金⇔労働の交換レート。ここに所属しているという特別感、ここでしかできない仕事、というものはそれほどなかったようだ。

妻の言う「特別感」の幻想は、それを集団的に体験する「現物」としての職場が霧消した以上、もはや再現不可能なものとなった。経営者もその事実とぞれがもたらす危機については十分に察知していて、合理的に見れば業務遂行上必要もないのに出社を強制する会社は後を絶たない。「チームワークが取れない」という言い方で本質をごまかしているが、彼らの内心にうごめいているものは「従業員を幻想にかけることができない」ことに対する焦りだ。
経営者というのは一種の魔法使いだ。利潤を生むには、従業員の対価を、労働で生み出した価値より少なく支払うことを納得させる、あるいは気づかせないというまやかしを見せなければならない。本来労働者が受け取るべき対価をピンハネし、その隙間に「帰属意識」や「ブランド志向」、「承認実感」などを詰め込んで満タン感を演出する。そうやって「現ナマ」をかき集めてきたのだ。
経営者は自身のカリスマ性を知らしめたり、洗練されたオフィスを提供するなどして、従業員を「現ナマ」以外の対価で魅惑し、忠誠心を抱かせることに成功してきたが、それがとても難しくなってしまった。魔法がうまくない経営者は、従業員の気持ちを慰撫するための現ナマ比率を高めないと人が雇えなくなったり、従業員が対価を大きく上回るほど勝手に頑張ってくれなくなって「利ざや」が減ってきている。現に妻の新しい勤め先のプロジェクトも、想定外のうまくいっていないことがあって赤字を垂れ流しているが、それを補填しようと必死な感じが現場からは感じられず、割とみんな定時で帰っているらしい。どこか他人事。残業しない風土なのは望ましいことだが、プロジェクトに対する誇りや執念のようなものが薄く、それはそれでどうなんだろうって感じだ。企業理念の暗示にかかっていない、醒めた、白けた現場。共同幻想がホモ・サピエンスのホモ・サピエンスたる最大の特徴であり、ストロングポイントだったのに、どんな暗示にもかからない「自律」した個人は、遺伝子にプログラミングされた「幸福感」を満足させることが難しくなってはいないだろうか。そんなおせっかいな心配をする。

とりあえずの結論としては、「自分ではない他の誰かがやりたいと思ったプロジェクトが先行してあって、後乗りで合流してその進行を円滑にするために助力する」という労働の構図をとる限り、人生が充実しているという実感を味わうのは難しい時代になってきているということかな。どんなに些末なサイズでも、自分が起点となったプロジェクトがいくつかあるだけで、人生に張り合いを感じられるよ。