un deux droit

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不労所得にはまだ早い

新規事業の契約ペースが鈍ってきて、暇になってきた。とりあえず検討中、という企業はそれなりにあるので、吉報をのんきに待っていたい気持ちもあるのだが、全部だめでしたってなったときに、開店休業中の私に無駄飯を食わせ続けておくほど会社もバカではない。すぐに兵隊アリに引き戻されてしまう。虫の良い話は長くは続かない。

別にさぼっていたいわけではないんだけれど、営業が全然仕事をとってきてくれないんだよなぁ、という言い訳を頭に浮かぶ。そして、「あれ、これって自分が営業の時に商品部が働かない言い訳として散々聞かされてきた文句じゃん」ということに気づく。これまで散々馬鹿にしてきた商品部の能無しっぷりを自らが見事に再現していることを恥ずかしく思う。彼らは脳が死んでいるのではなく、環境や構造で思考を制限されているだけなのだ。私は幸いにして営業の目線でも持ち合わせている。商品目線で手詰まり感を覚えたなら、営業目線で物事を見ればよい。
まず、今の私の売り方を見直す。魅力的な製品を作って、販売カタログを用意し、広告を打つ。やってきたのはこれだけ。営業には販促チラシとプレゼン資料を作ってあげれば、あとは勝手に売ってくれると高を括っていた。しかし、この物売りのやり方では限界があった。顧客の目に留まるところに陳列しておけば、一定数手に取ってくれると思っていたのだが、それは、購買動機が便利かどうか、有用かどうかだけが判断基準の場合だ。
私が手掛けている事業は、考え方を売っている。業界で通例となっている価値観の見直しを迫り、アップデートの方向性を提示するものだ。顧客からすれば、慣れ親しんだ考え方へ挑戦状をたたきつけられているとも捉えられる。当然、抵抗・反発も一定数想定される。
不必要と言われることに、営業は慣れっこだ。その顧客が単純にニーズを持たなかっただけで、ニーズを持つ人はほかにいる。営業の仕事は目の前の顧客にこだわり無理やり買わせるのではなく、さっさとあきらめて次に行くことだ。しかし、「それは間違っている」と言われることには慣れていない。相手がNoではなく、自分がNo。顧客に持ち込み、提案を仕掛けた自分の存在自体を否定される経験だ。商談が不成立に終わった後も、受けたダメージは尾を引く。そんな思いをしたくないから、営業は提案を仕掛けること自体をためらう。よほどその事業に共感し、自らもその責めを負う覚悟のある者か、相当鈍い人間でないと切らないカードだ。

ふと、これは布教活動に似ているなと思った。異教となじられ、迫害されてでも、草の根で支持者を拡大し、勢力を伸ばす試み。労多く益少ない。信者が増えてくれば口コミで広がっていくが、一介の営業マンがそこにもっていくまでの苦痛を追うわけがない。ではだれが負うべきか?それはイエスでありブッダでありムハンマドなのだ。万が一の時に磔にされる覚悟のある人間が布教をするべきなのだ。
教典にあたるものは作った。あとは営業がアポイントを取って同行依頼してくるのを待つのではなく、自分からスケジューラーを確認しに行って、この営業に同行させてもらえないか依頼して回ることが必要なのだ。営業はそもそも別の目的でアポイントを取っているから、わざわざ私のためにアポイントを取る苦労はない。よほど込み入った商談でなければ、勝手についてくる分には構わない。私が紹介するサービスについて顧客が腹を立てても、その責めを負うのは私になる。
私のことを哀れに思うかもしれないが、営業当人が傷つくことはない。ただ傍観者でいられる。

さっそく50人ほどいる営業の予定を上から順にしらみつぶしに確認し、一人一人に同行を打診する。案の定、全部OKが出る。営業からしても、顧客とのアポイントを取るときに、わざわざ私の予定と突き合わせて空いているところで設定する面倒を負いたくはない。自分が今面倒だと感じた行為を、私は営業に期待していたのだ。なんてばかばかしい話。こっちに売ってほしい動機があるのだから、面倒ごとは自分から買って出るべきだった。

3か月営業活動をさぼった小休止は本日でおしまい。また明日から去年までと同じどぶ板営業行脚が続く。しかし今度は、自分で売りたいと思ったものだけを、自分が売りたいと思った顧客に提案できる。それだけで随分ましだと思おう。