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自己啓発本は思考力強化にうってつけ~【書評】喜多川泰『運転者』

Amazon Prime Readingのタイトルを漁っていると、表紙の発色が綺麗だったので読んでみた。

「報われない努力なんて無い!」という斜め上からの煽り文句が帯に書かれていて、どんなイカレた自己啓発本かと思って開いてみると案外するすると面白く読めた。


自己啓発本は読んでいて楽しい。世界を思いっきり単純化して、取るべき行動指針をシンプルにする。「信じる者は救われる」じゃないけれど、内容を鵜呑みにするピュアな人間は、本当に書かれているような人生の成功を手に入れるような気がする。私みたいに邪悪で怠惰な人間は少し立ち振舞いを見直そう、というきっかけになる程度である。

自己啓発本の危険なところは、全てを自己責任に帰する傾向があるところだ。悪い出来事は全て自分のせい、逆に良きことも全て自分の成果。残念ながら人生はそう単純でない。ただそう単純であってほしいという気持ちはよく分かる。でもそういうふうに人生を捉える人が増えて社会構造の壮大なペテンや不条理に鈍くなってしまうのはいけない。

だから、自己啓発はあくまで自己の啓発にのみ使うべきで、その内容をもって他者の啓発に使ってはならない。啓発上手な人は物言えぬ弱者を大量に排出してしまうので有害だし、啓発下手な人は胡散臭い人間認定されて、本に書かれているような人生を手にすることが叶わなくなってしまうだろう。

この本では、「運」を良い/悪いではなく「貯める」「使う」という捉え方をするのはどうか、という提案をしている。努力の割に得られた成果が少ないと感じた場合はその差分を「貯まった運」と捉える。逆に少ない労力で大きな成果を得た時は「運を使った」と捉える。幸運と思える出来事が自分に起きない人は、そもそも使えるだけの運を貯めていないのだ、ということだ。成功しているようにみえる人は努力して貯めた運が多いから、使える運も多いのだ、という理屈。使いきれなかった差分の運は次代に引き継がれる。なんとも素晴らしい世界観だ。

この物語というか、自己啓発ビジネス最大の欠陥は、「すべてが後付け」だということだ。何かしらの事象があって、後から意味付けをする。この後出しジャンケンができる限りは好きなだけ都合よく解釈できる。書かれていることを忠実にやったのに成功を手にすることができない人は何かしら落ち度があったのだということになる。書かれていることを何もやっていないのに成功を手にした人間はきっと人知れず努力しているのだということになる。自己啓発論者は、具体的な結果が発生する前に誰かの成功あるいは失敗を保証することはできない。因果関係を事前に証明できないのだから考えても無駄なのだ。

今日出勤するときにANAグランドホテルのテラス席で醜い腹をさらけ出しながらだらしなくくつろぐおっさんがいた。平日の朝っぱらから良いご身分である。いかにも成金といった風情の趣味の悪い装飾を腕や首にぶら下げ、額にサングラス、若作りの白髪染め、など何一つ好感の持てる要素がなかった。しかし金だけは間違いなく持っているということは確信の持てる出で立ちだった。彼がどれほど人に嫌われていようと、殺されたでもしない限り豪勢な暮らしを続けられるだろう。彼がこれまで自助努力だけで蓄財してきた、それだけ運を貯めてきたのだ、と思うほうが生きていて辛い。きっと生まれが良くてなんの努力もせずに使える金にあふれているんだろう嫌な奴め、と唾棄できる方がよっぽど精神衛生上良い。


私自身の現在の生活を顧みても、人望などなく、特別な貸しがなくとも十分な業務支援は得られるし、自分の推進する事業派の快い協力も得られている。誰のご機嫌を取る必要もないし、ご機嫌を取らないと仕事を進めてくれない人がいるなら直接対峙して態度を改めるように言う。合理性と納得感で動いてもらった方がいいに決まっている。人間関係のしがらみで通してもらった融通は、人間関係によってひっくり返される。現に、取締役のオバハン(副社長と不倫)が新規事業の推進をやっかみ妨害しようとジタバタしているが、筋の通らない批判や工作に協力する人間はおらず皆静観している。

結局のところ、「努力は報われる」という大層な標語も後付けなのだ。報われた労力を後から努力と呼び、報われなかった労力を後から徒労と呼んでいるだけ。そんなに躍起にならずに、肩の力を抜いて行きましょう。