un deux droit

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家庭生活に求められる知性

Tverでマツコ会議を見てたら、旦那さんが奥さんの生理周期を管理して、無用なトラブルを避けるようマネジメントしている、というエピソードが披露されていた。それに対してマツコさんが「これは相当なインテリジェンスが必要だ」と感嘆した。私も強くそう思う。

 

私には妻の体調不良や子どものわがままを上手にマネジメントするだけの知性が足りない、とつくづく痛感する。ここでいう知性とは先天的な知能のことではなく、相手の立場を想像し続ける思考体力のことだ。妻は生理中の妻を「末期癌患者だと思え」とよく言っている。仮に妻が末期癌患者だったならその言動をするか、その配慮を怠るか、など常に自省しろという意味だ。末期癌患者でない人間を末期癌患者に置き換えて自分の立ち振る舞いを絶えず修正するというのは非常に脳にストレスがかかる。「これぐらいやってよ」「その言い草はいくらなんでも酷いんじゃない」と、すぐ末期癌設定を棚上げして不平を口にしてしまう。他者のために自分で自分の脳を騙し続けるというのを許容するんだからとんでもない知的体力だ。私はその労力を惜しむ。けれどもその労力を惜しんだ結果の長々とした無意味な口論で奪われる時間と比べたら、労力を割いた方が割に合う、ということなのだろう。

妻が生理中だと妻へのケアが最優先で自分の担当の家事がしばしば滞る。子どもが始終わがままを言う。それを妻に任せっきりにしておくと「なんで病人に」となるので、調理も皿洗いも風呂掃除もなかなか先に進まない。この作業の強制的中断が何度も繰り返されるのが本当に不快だし、結局子どもが寝てからの残務処理が増えて自分の時間が大幅に削られる。それでも喧嘩して失う時間と溜め込むストレスよりは遥かにマシだ。そう言い聞かせて不愉快に堪える。なぜこんな苦しい日々を過ごす必要があるのかはよくわからないが。

きっと子どものわがままももっと未然に防ぐために頭を使えということなのだろう。朝起きて来なくて不快なら、早めに起きてストーブをつけてやれば良い。用意や片付けをしなくて不快なら、何か子どもが夢中になれるゲーム性を考えてやれば良い。その知的体力を惜しむからいつまでも子どもを叱りつけるしか脳がなくなる。子どもがやるべき行動をやらせるのに、手間暇をかけるのが損だと感じてしまうのだ。おそらく自分が幼少期、何も対価を与えられず頭ごなしにあれしろこれしろと言う親に黙って従ってきたから、子どもは親が対価を支払うことなしに親の意向に沿うべきだという初期設定が邪魔しているのだと思う。与えられて来なかったことの価値を想像して与えてあげるというのもまた知性を要する。

優しさを受けてきた人は、また誰かに優しさを与えてあげるということが容易にできるはずだ。既に自分の手元にあるものを横流しするだけで「有」から「有」の移動に過ぎない。知性は必要ない。しかし優しさを受けて来なかった人間は優しさの設計図が手元にないので「無」から「有」の創造が求められる。前者にとっては優しさは「性格」だが、後者にとっては優しさは「知性」である、ということ。だから自分の性格が悪いのだと卑下せず、ただ頭がそれほど上等でないのだということにしておきたい。